斎藤利三

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用

明智家

斎藤利三~光秀の右腕にして春日局の父親だった明智家重臣~最期は秀吉に斬首され

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斎藤利三
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元親も判断に迷いましたが、結局、強大な織田家に真っ向から逆らう愚を避けるため、態度を軟化させました。

しかし、です。肝心の信長が、攻勢の手を緩めようとせず、あくまで四国攻略は既定路線であるという認識を示すのです。

この「四国政策の転換」は、光秀にとって叛意を募らせる一つの要因になったと指摘されています。

本能寺の変をめぐる光秀の真意は日本史上最大の謎であり、利三の立場を考えると、その一因となったとしても不思議ではない……と言いたいところですが、この四国動乱説も後に新史料が出て「織田と長宗我部は和解に向かっていたのでは?」と指摘されています。

数多ある本能寺の変真相については、以下の記事に詳細をお譲りしますので、よろしければ併せてご覧ください。

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ともかく光秀はことを起こした。

利三にとって重要だったのは、明智秀満などの明智家重臣と共に、光秀から最初に決意を打ち明けられたことでしょう。

 

主・光秀の意を汲み本能寺へ

秀光も利三も、主君・光秀のクーデターには反対だったと伝わります。

しかし、結局は意思を尊重し、変の首謀者として名を連ねることになりました。

天正12年(1582年)6月2日未明。

利三らは、信長の滞在する本能寺を急襲します。

【本能寺の変】の始まりです。

利三は先鋒として攻撃に尽力し、信長の遺体を押収することこそ不可能だったものの、燃え盛る炎の中でまず間違いなく敗死させ、さらには二条にいた織田信忠を自害へと追い込みました。

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光秀の目的は達成されたのです。

天下の下剋上を果たした光秀は、さっそく公卿や周辺武将と交渉を重ね、地盤を盤石なものにしようと行動しました。

しかし、悉く失敗。

特に、彼が頼みにしていた細川藤孝筒井順慶の協力を得ることができないのが痛手であり、なおかつ羽柴秀吉(豊臣秀吉)の【中国大返し】により、非常に不利な状態での直接対決を余儀なくされます。

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同年6月13日に、山崎の戦いが勃発!

利三はここでも先鋒を務めました。

 

洛中引き回しの上、六条河原で斬首

勇猛果敢に攻め込むにしても、戦前から明智軍の不利は火を見るより明らかでした。

大義名分はまったく無く、単純に兵数でも大きく負けている。

「信長様のかたきを討とう!」

そんな秀吉軍とは士気の差が歴然であり、明智方は大敗を喫するとあえなく瓦解します。

そして光秀は逃亡の最中で自害を余儀なくされ、後に安土城も坂本城も火の海に包まれました。

作戦に反対したと考えられている利三は、この光景をどのような思いで見ていたのか……。

それでも、大半の明智勢が討ち死にや自害の憂き目に遭う中で、利三は戦場を逃れ、潜伏しながら逃亡生活を送っていました。

彼は近江の堅田に潜伏していたと考えられています。

しかし秀吉が捜査網を拡大させると、戦からわずか4日後の17日に捕縛。

当然ながら許しを得られるはずもなく、洛中を引き回された後に六条河原で斬首されてしまいました。

さらに、彼と光秀の屍は見せしめとして栗田口にさらされるなど、その最期はあまりにも虚しいものになってしまったのです。

利三の存在を史料の上で確認できるのはわずか10年と少々ではありますが、光秀の重臣として彼の出世に大きく貢献したことは疑いようもないでしょう。

 

利三の子どもたちは江戸時代に名を挙げる

洛中引き回しの上に死体まで晒され……。

一切の名誉を誇示することができなかった利三。

しかし、江戸時代になると彼の子供たちが父の不遇を跳ね返すような目覚ましい活躍を見せるのです。

利三の子どもで著名な人物は、江戸幕府三代将軍である徳川家光の乳母ながら政治家としても実権を握った春日局や、加藤清正の配下として活躍した斎藤利宗が挙げられるでしょう。

春日局は「福」という名で斎藤家に生まれ、父の死をきっかけに母方の稲葉家に引き取られたと考えられています。

そこで公家流の教養を身に着け、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の妻となりました。

正成は関ヶ原で秀秋を寝返らせた功のある人物となりましたが、秀秋のもとを離れるや浪人生活を余儀なくされています。

これがキッカケとなったのか。

利三の娘・福は大奥入りを決意し、夫と離婚。

家光の乳母として養育係の枠を大きく超えた実権を握るようになり、その権力は老中をもしのぐとさえ噂されました。

また、春日局は後に老中を務める堀田正俊を養育するなど、その後の幕府やさらには明治維新にもつながる活動をみせています。

「謀反人(家臣)の娘」という立場から一気に立身出世を果たした春日局は、まさしく父の無念を晴らした見事な下克上を成し遂げたのです。

彼女が下克上していくにあたり、利三の母方に存在したコネクションが大いに役立ったのは間違いないでしょう。

このあたりの経緯を見る限りでは、稲葉家と利三の関係性は良好なようにも感じられ、引き取るリスクを冒していることからも良通と利三が仲たがいしたというのは疑わしいようにも思えます。

自身こそ主君の天下を味わう間もないまま亡くなってしまった利三。

彼の死後に春日局が果たした役割を考えると、歴史上における彼の存在した意義は非常に大きなものと言えるのかもしれません。

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文・とーじん

【参考文献】
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興:戦国美濃の下克上(戎光祥出版)』(→amazon
木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)(岩田書院)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon

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