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【細川ガラシャ(明智たま)】
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逆臣の娘なれど処刑はされず
本能寺の変が勃発したのが旧暦6月2日の未明。
毛利家と和睦を結んだ秀吉が、畿内へ戻ってきたのが6月13日。
中国大返しという離れ業をやってのけた秀吉を前にして、細川藤孝の協力を得られなかったのは致命的でした。
光秀は、同日行われた【山崎の戦い】で秀吉に敗れます。
落ち武者狩りに遭って命を落としたとも伝わり、逆臣の一家として明智家も滅亡することになりました。
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こうしてガラシャもまた「逆臣の娘」という大きな十字架を背負って生きていくことを余儀なくされます。
ただ、ここで注目すべきところは、ガラシャが父に連座して、自害や処刑という憂き目に遭わなかった点でしょう。
「戦国時代の女性は家と運命を共にするもの」
ガラシャも父の光秀と共に責任を取らされたのでは? そんなイメージがあるかもしれません。
例えば【賤ヶ岳の戦い】で敗れた柴田勝家と、共に自害したお市の方などはそれに類するものとなるでしょう。
しかし、お市の方にしても、最初の嫁ぎ先・浅井家が滅亡した際は信長の許しを得て生き永らえ、清須会議の後に勝家と再婚しています。
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戦国時代には、
【戦の責任をとるのは男連中であり、女子供まで責任を追うべきではない】
という考えがありました。
もちろんこの例に当てはまらず撫で切りが敢行された例や、一族郎党全員が処刑という例もあります。
が、それらはあくまで「例外」であるからこそ有名になったという側面もあり、ガラシャもまた特別な事情で助かったというより、戦国時代の慣例に沿っただけのことでしょう。
もっとも離縁されてからの幽閉生活はかなり過酷なものだったようで、復縁までの約2年間は辛い日々が続いたことは事実です。
ちなみに、こうした慣習にもかかわらず、お市の方が勝家と共に自害した理由は、彼女自身が二度目の「逃走」を拒否したためだとされています。
「もう逃げたくはない」というワケですね。
実際、勝家はお市の方に逃走を勧めていたのであり、そこからも「当時の女性が責任をとる必要がない」ことが見て取れます。
キリスト教との出会いで細川ガラシャに……
約2年の幽閉生活を強いられた細川ガラシャ。
謹慎が溶けると、細川家の正室として大坂の細川邸に舞い戻ります。
名門・細川家を配下に取り込みたい――そんな秀吉の取りなしも幸いしました。
この頃の細川ガラシャは幽閉の影響なのか、高山右近から耳にしたキリスト教の信仰に興味を示し始めました。
右近は夫・忠興の友人であり、熱心なクリスチャン大名として知られた存在です。
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彼女は、九州征伐で忠興が大坂を離れたタイミングを見計らって教会を訪れます。
厳重な監視をかいくぐって侍女ら数人を従え、巧みに身を隠しながらガラシャは教会にたどり着きました。
そして教会に到着すると、キリスト教の教義について日本人修道士に様々な質問を浴びせます。
この修道士は、細川ガラシャの洞察力を受け
「これほど機知に優れた女性は見たことがない」
と絶賛するほどでした。
ガラシャはキリスト教の教えに感銘を受けると同時に、その場での洗礼を望みました。夫に咎められたりして、今後、教会を訪問できなくなる可能性を考慮したのです。
しかし、教会側はガラシャの洗礼を見合わせます。
彼女が高貴な身なりをしていることは分かりましたが、だからこそ「キリスト教追放」を掲げた豊臣家ゆかりの女性である危険性を考慮したのです。
夫の忠興は洗礼に激怒
実際、ガラシャはその後、再び教会を訪れることはできませんでした。
侍女を派遣して宣教師とのやり取りを続けてはおりましたが、程なくしてバテレン追放令により宣教師たちが大坂を去ることになってしまいます。
そこでガラシャは急ぎの洗礼を望み、自邸に滞在しながら実施するのです。
与えられた洗礼名は「ガラシャ」。
この時点で初めてその名が付けられたのですね。
「細川ガラシャ」という呼称は生前には用いられず、一般に広く浸透したのはキリスト教が再び日本に普及した明治時代以降であったとされています。
ともかく、彼女の行動を聞き、夫の細川忠興は激怒しました。
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自身の留守を狙い、さらにはバテレン追放令が出ている最中に洗礼を受けるなど言語道断。
スグに棄教せよ、と迫ります。
ガラシャは頑として棄教を拒みます。
仕方なく忠興も最終的には黙認。この一件は二人の夫婦仲悪化を決定的なものとしました。
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