細川ガラシャ(明智たま)

細川忠興とガラシャ像

明智家

細川ガラシャの壮絶過ぎる死~父は光秀・夫は細川忠興~非業の女性38年の生涯

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順風満帆とは言えず離婚を望んでいた

忠興とガラシャ夫妻の結婚生活は、当初から決して順風満帆とは言えませんでした。

なぜなら忠興が病的なまでに短気――というより狂気のような奇行を繰り返していたからです。

「ガラシャの小袖で血を拭った」

「生首を投げつけた」

などなど、およそ現代では考えられない行動を繰り返しています。

しかし彼女も、それに耐え忍ぶだけの、か弱き女性ではありませんでした。

実は上記のエピソードには続きがあります。

「血をつけられた小袖を頑なに脱がず、最終的には忠興の懇願をもってようやく脱いだ」

「生首を投げつけられても平然としていた」

さすが武士の娘、明智光秀の娘と言いましょうか。

結果、忠興とガラシャはお互いの個性が絶えず衝突してしまったようです。

ガラシャは忠興に愛想を尽かし、真剣な離婚の相談を宣教師にもちかけておりました。カトリックの教義で離婚が厳しく禁じられていたからです。

当然ながら、宣教師も思いとどまらせようとしました。

が、このときの説得を「たいへんに骨が折れるものだった」と記録しており、ガラシャの意思が頑なであったことがわかります。

それでも最終的にガラシャは諦めるのですが……ここで強引にでも離婚を選択しなかったことが彼女の命運を大きく分けることになります。

もっとも、仮に「最期」が我々の知っている形でなければ、彼女の知名度も今ほど高くなかったかもしれません。

壮絶な最期は、皮肉にも彼女の人気に大きく関係しているでしょう。

 


関ケ原の戦いに巻き込まれた壮絶な最期とは

本能寺の変という、予測不能の出来事に翻弄され、危機に陥ったガラシャ。

彼女の最期は、ある意味それ以上に劇的な展開でした。

慶長5年(1600年)、関ヶ原前夜――。

徳川家康石田三成の対立が決定的になると、彼らはお互いに味方の武将を集めました。

もしも両雄がぶつかれば、日本は真っ二つに分断される。

どちらの陣営に味方するかで御家の命運は決まる。

そんな状況に揺れ動く全国諸将を傘下に従えるため、家康と三成は様々な工作によって寝返りや離反を促すのです。

では、ガラシャの属する細川家はどうだったか?

というと早くから家康への恭順を表明しておりました。

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もちろん三成とて簡単に諦めるわけにはいきません。

諸大名に強い影響力を持つ名門・細川家を味方につければ、形勢は有利になる。

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そこで三成は忠興の留守をついて細川邸を急襲、ガラシャを人質にしようとします。

当然ながら、細川家を自陣営に引き入れるためです。

ところが、ここで三成も予期せぬ出来事が起きます。

万が一の事態が起き、

「人質に囚われそうになったら自害せよ」

と忠興に伝えられていたガラシャ。

彼女は、三成の急襲を受けると自害し、侍女に屋敷を爆破させ、壮絶な最期を遂げるのです。

ガラシャ自害の方法については諸説あり、部下に切らせたとも自分で胸を突いたとも伝わっています。

享年38。

あまりにも悲劇的な最期でした。

ガラシャ自害――。

その一報を受けた夫の細川忠興は激怒したと伝わります。自分で「万が一のときは自害せよ」と言っておきながら本心ではなかったんですね。

忠興は、怒りの矛先を変え、ガラシャを見捨てて逃げた家臣を手打ちにしようとしたところ、家康に仕えてしまったため手出しができず、やむなく断念したというエピソードが残されています。

なんだかんだで忠興は彼女を手放せなかったのでしょう。

あまりにも歪んだ愛情かもしれませんが……。

 


辞世の句が象徴するガラシャの人生

ガラシャの詠んだ辞世の句は、その壮絶な最期と共に人々の記憶に残されることとなりました。

「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

「散るべき時を知っているからこそ桜は美しい。そして、人もまたそのような人がこの世にはふさわしいのだ」

この辞世の句には、ガラシャの「人生哲学」のようなものが反映されているように感じます。

思えば、彼女の生涯で、自由意志を行使できたことはほとんどありません。

聡明な人物でありながら、常に周囲の動きに翻弄され続けていたのです。

それが最後の最後になって究極の「選択」を追求する権利を得た――。

「ちりぬべき 時しりてこそ」という果断さ、美しさに、人は魅了されるのでしょう。


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文:とーじん

【参考文献】
上総英郎編『細川ガラシャのすべて』(新人物往来社)(→amazon
安延苑『細川ガラシャ』(中央公論新社)(→amazon
田端泰子『細川ガラシャ ―散りぬべき時知りてこそ― 』(ミネルヴァ書房)(→amazon

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