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【黒井城の戦い】
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第一次黒井城の戦い
天正3年(1575年)。
織田信長は赤井氏が君臨する丹波の制圧戦に乗り出すことにしました。
司令官は、当時の織田家出世頭とも言える明智光秀。
名目上は「赤井氏の征伐」ではなく、あくまで「信長に盾突く守護代・内藤氏と、国人・宇津氏を撃破する」というものです。
いったい何のために?
というも、当時の赤井氏は「反信長を志向してはいたものの、表立っては反旗を翻したわけじゃない」ため、彼らを征伐できる大義名分がありませんでした。
そこで、かねてより反抗的であった丹波勢力の討伐として軍を進め、そこから赤井氏を攻めようと考えたようです。
光秀はまず、丹波で協力的だった波多野氏の後ろ盾を得ました。
同時に、織田家に忠誠を誓っていた丹波の豪族や国衆らを与力として侵入し、あっという間に制圧してしまいます。もともと内藤や宇津といった勢力はそこまでの強さはありません。
かくして光秀が、本命・赤井氏への攻撃に転じると、彼らは黒井城へと立てこもりました。
赤井軍には「悪右衛門尉」とか「丹波の赤鬼」とも呼ばれた猛将・赤井直正が健在でしたが、光秀の兵糧攻めによってジリジリと追い込まれていきます。
光秀方としては、丹波国衆のほとんどが自分たちに味方していたということもあり、かなりの楽観ムードが漂っていたようです。
実際、丹波の国人である八木豊信は「まっ、来年の春までには落城するでしょ」と戦況を評するほどでした。
しかし。
この楽観ムードを一変させる大事件が翌天正4年(1576年)の年明け早々に起こります。
これまで光秀に付き従っていた波多野氏が突如織田家を裏切り、光秀軍は赤井・波多野連合軍の前に敗れ去ってしまうのです。
光秀は撤退を余儀なくされ、同時に信長も短期決戦による丹波平定を諦めることになりました。
なぜ波多野氏が光秀を裏切ったのか?
という点についての詳細は不明です。
伝承のレベルでは、
「猛将直正が波多野氏を呼び込む軍略だった」とか
「開戦前から内応の密約が結ばれていた」など
諸説あり、いずれも明確な根拠は示されておりません。
他の仕事をこなしつつ再攻撃の機会を窺う
いったん兵を引き揚げた光秀は、信長に叱責を受けるどころか、以前にも増して重要な仕事を任せられます。
大坂の本願寺や雑賀攻め。
あるいは大和の松永攻めなど、畿内の作戦行動に従事していました。
あまりに多忙すぎるがゆえに、このころ病を発症したともいわれていますが、無事に回復しております。
天正5年(1577年)以降は小規模な丹波攻めが続き、そして天正6年(1578年)、いよいよ大規模な軍事行動を起こすときがやってきます。
このころ赤井直正や波多野秀治は、毛利氏や武田氏と連携して反攻の機会をうかがっていたようです。
しかし、勢力を拡大していく信長に対して、効果的な対抗策を見いだせないまま時間が経過。
ついに光秀の猛攻に晒されることになります。
と言っても、光秀もマルチタスクをあまりに抱えさせられていて、丹波に出陣しては大坂へ呼び出されたり、再び丹波に戻っても次は播磨へ、という具合で劇的に勢力を一変させるまでには至りません。
それでも少しずつ丹波制圧を進めていくと、ついに波多野氏の本城である八上城の包囲にまでたどり着きました。
八木城を兵糧攻め
波多野氏相手の攻城戦は、かなりの持久戦になりました。
光秀も無闇な力攻めは行使せず、城を取り囲んでの兵糧攻め。
織田軍の兵糧攻めと言えば、豊臣秀吉による【三木の干し殺し】や【鳥取の渇え殺し】が有名です。
同時期に、光秀も同じような攻撃を仕掛けており、八木城内でも餓死者が続出するようになっておりました。
秀吉と官兵衛の「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」がエグい 人は飢えると◯肉も喰う
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事ここに至っても、城主の波多野秀治は「玉砕覚悟!」と抵抗を止めません。
しかし、味方が踏ん張っていた支城の氷上城までもが落城すると、当主ではなく家臣たちが限界を迎えてしまいます。
そして八上城、ついに落城――。
波多野秀治およびその兄弟らは市中引き回しの挙句、安土城で磔にされて波多野氏は滅びました。
光秀は自身の作戦を妨害した仇敵を葬り去ると、続いてかつて打倒した宇津氏をもう一度叩くべく宇津城に攻め込み、これもまた手早く落とします。
丹波衆の裏切りも心配なくなった光秀は、いよいよ赤井氏が居を構える黒井城を目指して進軍。
黒井城をめぐって一大決戦が繰り広げられる! と思われましたが、実際はそうなりませんでした。
そこにはもう猛将・赤井直正の姿が無かったのです……。
いったい何が起きていたのか?
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