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【黒井城の戦い】
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第二次黒井城の戦い
赤井氏を支えてきた悪右衛門尉こと赤井直正。
なぜ、彼が黒井城にいなかったか?
天正6年(1578年)に亡くなっていました。
死因は不明ながら、少なくとも第二次黒井城の戦いが勃発する以前にはこの世を去っていたと思われます。
直正は、武勇に優れているだけでなく家中の統率力という面でも突出していたため、決戦前に彼を失ったのはあまりに大きな痛手でした。
当主の赤井忠家は形式上の権威であり、軍政だけでなく国政のほとんどが直正の手によって執り行われていたのです。
直正の死を受け、主君の忠家を補佐していたのは赤井直信でしたが、素性はほとんど分かっていません。
取り立てて能力を象徴するような逸話も残されておらず、知略や武力の突出した武将ではなかったと思われます。
明智軍に向かって捨て身の突撃!
また、周辺の状況も以前とは一変しておりました。
丹波の大半が光秀の勢力下に入ってしまっていたため、赤井氏は完全に孤立していたのです。
黒井城以外の支城も続々と落とされており、仮に赤井直正が生きていたとしても戦局を覆せるほどの働きができたかどうかは微妙です。
こうした数々の不利を抱えたまま光秀の攻撃を迎えた赤井氏。
籠城によって飢餓状態へと追い込まれていくと、おとなしく白旗を挙げる……のではなく、なんと城を打って出て、明智軍に向かって突撃を開始しました。
まさに武士の魂とでも言いましょうか。
死を覚悟した死兵は何よりも恐ろしい――とは言いますが、だからといって気合いで逆転できるほど光秀は甘くありません。
決死の赤井軍は明智軍に返り討ちにされ、城は占拠されてしまいます。
主君の赤井忠家は、落城するやいなや全力で逃亡ました。
こうなると普通は落ち武者狩り等に遭って、敵へ差し出されるのがお馴染みのストーリーですが、忠家の逃げ足は凄まじく、光秀の追撃を振り切って生き延びます。
黒井城と赤井氏のその後
かくして赤井氏は滅び去り、足掛け4年におよぶ光秀の丹後平定は完了。
光秀の生涯において最も輝かしい功績と考えられており、彼は織田家臣においての地位をまた一段と高めていきます。
丹波を平定した光秀は、そのまま同エリアの支配を任されることになりました。
黒井城も光秀の管轄となり、重臣・斎藤利三に統治を任せます。
しかし、その栄華も長くは続きませんでした。
ご存知、1582年に【本能寺の変】を強行すると、豊臣秀吉の【中国大返し】から【山崎の戦い】へと持ち込まれ、明智光秀も斎藤利三も滅び去ってしまうのです。
黒井城の後釜には、豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が入城しました。
堀尾吉晴が別の領地へ転封されると、黒井城も歴史の表舞台から消え去ります。
そして、再び着目されるのが天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのとき。
赤井直正の弟である芦田時直(赤井時直)が徳川方として黒井城で兵を挙げ、この活躍が家康の目に留まり、直正の子息が取り立てられるという約束を取り付けたというのです。
★
なお、光秀に黒井城を追われ、這々の体で逃げ出した赤井忠家は……。
秀吉が天下を掌握すると、馬廻衆の職に就き、関ヶ原では東軍に味方。
戦後も幕府の旗本武将として家名をつないでいきます。
さすが悪右衛門尉の血縁者たち。
城は滅びても、家は立派に残すのでした。
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文・とーじん
【参考文献】
『日本歴史地名大系:黒井城跡』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名大辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)