永禄の変

永禄の変にて壮絶に散った13代将軍・足利義輝/wikipediaより引用

足利家

永禄の変で13代将軍・義輝自ら刀で応戦!敗死に追い込まれた理由とは

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「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」稀有な例

かたや三好三人衆と松永軍は、当時行われていた御所の門の改修が済む前に決着をつけてしまおうと考えました。

清水寺の参詣を名目として、約1万の兵を率いて市中に入り、一気に御所へ。

「将軍に訴訟あり」として、取次を求めます。

この訴訟自体が嘘か本当か、なかなか怪しいところであり、最初から殺害目的ではなかった、とする見方もできたりします。

要は、三好松永勢は、武力を背景に将軍へ圧力(御所巻・ごしょまき)をかけたというのですね。

しかし、結局、この直後に攻撃が開始されてしまい、真実は不明。

義輝は、既に完全に包囲されたといっていい状況でしたが、近臣たちはよく応戦しました。

十数名で三好方の数十人を討ち取ったそうですから、単純に考えて一人で二人以上倒しているわけで、士気の高さがうかがえます。

彼らの抵抗は、将軍を守るためというよりも、名誉を保たせるための時間稼ぎだったのかもしれません。

まず側近の一人・進士晴舎(しんじ はるいえ)が、敵の侵入を許したことの詫びとして、義輝の御前で切腹しました。

義輝はその後、近臣たち一人一人と最後の盃を交わし、三十名ほどを率いて自ら討って出たといいます。

これが日本史上稀に見る

「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」

瞬間でもありました。

義輝自身も剣豪・塚原卜伝や剣聖・上泉信綱に教えを受けていたとされるだけあり、自ら薙刀を振るい、その後、手元にあった刀で応戦したといわれています。

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このとき「名刀を畳に予め突き刺しておき、切れなくなっては次々に持ち替えていた」という図で語られることが多いのですが、出典が頼山陽『日本外史』という江戸時代のものであり、後世の脚色である可能性が高いでしょう。

ただし、フロイス『日本史』でも「刀や薙刀で応戦した」という記録があり、将軍自ら戦ったこと自体は間違いなさそうです。

まあ、この状況で

「鞘から出してすぐ使えるようにする」

「それでいて自分が怪我をしにくい状態を保つ」

を兼ねるには、畳に突き刺すのがベストかもしれませんね。

また、このとき現代でも国宝となっている名刀中の名刀「三日月宗近」を義輝が使っていた、という話もありますが、これも確実な史料ではないようです。

現在残っている三日月宗近の刀身からすると、このような荒っぽい状況で使われてはいなさそうです。

そもそも、三日月宗近は伝来にはっきりしない部分が多いため、義輝が持っていた可能性についても確定はできないそうで。

 


義輝の家族も、多くが乱の被害者となり

このように奮戦した義輝主従も、やはり多勢に無勢というもの。

当日、在京していた公家・山科言継の日記『言継卿記』によれば、この日の正午過ぎあたりには側近が全員討死あるいは自害し、義輝も自害したといいます。

ちなみに主犯の一人とされる松永久秀は、永禄の変当日は京都ではなく大和にいたようで、足利義昭の書状からすると、久秀個人としては将軍家に対して手荒なことをするつもりはなかったようです。

完全に冤罪ですね。

義輝の家族も、多くがこの乱の被害者となりました。

・義輝の弟
鹿苑院院主・周暠(しゅうこう)三好方に殺される

・義輝の母
慶寿院(近衛尚通の娘にして十二代将軍・足利義晴の正室)自害

・義輝側室
小侍従(進士晴舎の娘)義輝の子を身ごもっていたため殺害される

義輝の正室である近衛稙家の娘は、実家の近衛家へ送り届けられました。

また、義輝のもう一人の弟であり、当時は興福寺一乗院の門跡を務めていた覚慶(後の足利義昭)も助かっています。

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二ヶ月ほど軟禁状態に置かれた後、細川藤孝やその兄・三淵藤英、さらには甲賀の和田惟政らに救出されるという流れでしたので、なかなか大変でしたが。

このあと義昭は、六角氏や若狭武田氏などを頼って転々と移動し、朝倉氏の元へ身を寄せることになります。

 


次はお約束とばかりに松永の排除始まる

こうして邪魔な義輝を片付けた三好三人衆と松永久秀。

お約束とばかりに、その後は、仲間割れを始めます。

彼らは11代将軍・足利義澄の孫・足利義栄を14代将軍として担ぎ上げていたのですが、この時点ではまだ朝廷も対応を決めかねていました。

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つまり、まだ神輿が定まってもいない状況でケンカを始めているわけで……お前ら、何しよんじゃ(´・ω・`)

三好三人衆は年若い三好氏の当主・三好義継の名のもとに、松永久秀の排除を計画します。

しかしそれに対して久秀は大和守護を自称し、大和をシマにするべく動き出します。

もともと大和には守護がおらず、その立場にあたるのは興福寺でした。

というか興福寺は、藤原氏の祖先である中臣(藤原)鎌足とその息子・藤原不比等ゆかりのお寺なので、歴代の政権が誰も手出しできなかったのですね。

興福寺五重塔

源平合戦の最中に、平家の八つ当たりみたいな経緯で焼かれたことはありましたが、それでも建物的にも権力的にも、難なく再建。

延暦寺と同じように、強訴(ごうそ・僧兵らが神木などを担いで要求を押し通す)もしておりました。

戦国時代には、興福寺に組み入れられていた武士の一人・筒井順昭(つつい じゅんしょう)などが戦国大名化し、事実上の守護として大和を治めていました。

ただし、順昭は急死しており、まだ数え2歳の子・筒井順慶が跡を継ぎ、現実的には順昭の弟(順慶からみて叔父)二人が補佐して何とか治めていたという状況です。

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永禄の変の数年前から松永久秀が筒井氏を圧迫、領地と居城・筒井城、そして実質的な守護の権利も奪っておりました。

松永は、最期の自爆伝説(実際はしていない)が凄まじすぎて曇りがちですが、その手腕はまさに戦国の梟雄と呼ぶにふさわしいんですね。

斎藤道三宇喜多直家(あるいは北条早雲)と共に【戦国三大梟雄】と称されるだけはあります。

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