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【永禄の変】
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六角氏の仲介で和議が成立する
かくして、間にいくつかの別件を挟んで天文十八年(1549年)、長慶は政長を討ち取ります。
これを危惧した細川晴元は、前将軍・足利義晴と十三代将軍・足利義輝を連れて近江坂本へ逃げました。
事実上の人質です。
しかしその間に、今度は長慶が京都を掌握し、実質的には政権交代が起きるのです。
晴元から見ると
「将軍を人質にして優位に立ったと思ったら、力がなさすぎて意味がなかった」
という感じになります。あぁ、涙目。
ここからしばらく、近畿を手中に収めた長慶と、京都に戻りたい義輝&晴元の対立が続きます。
権力的には長慶が有利。
戦力的には近江守護・六角氏を味方につけた足利義輝らに有利でした。
そして永禄元年(1558年)、六角義賢の仲介で、やっと和議が成立します。
和議は、長慶が以下の条件を受け入れることです。
・晴元が隠居すること
・細川氏の家督は親戚の氏綱が継ぐこと
・晴元の息子聡明丸(後の昭元)を幕府の中枢に据えること
・義輝の上洛
これで公的には足利義輝の側近となり、一応、話も丸く収まったかに見えました。
次々に身内が脱落し、そして長慶自らも
先に動いたのは細川晴元でした。
晴元が再び挙兵すると義輝も呼応し、再び三好長慶と対立します。
一方の長慶は、自身の病気に加え、弟の十河一存と三好実休、そして嫡男・三好義興など、身近な親族を立て続けに亡くし、その影響なのか、徐々に判断力を失っていきます。
残っていた弟の安宅冬康も、家臣からの讒言で自害。
実に、長慶の居城・飯盛山城に呼び出されての死となりました(長慶により殺害されたという説も)。
次々に親族が死にゆくなか、永禄七年(1564年)には長慶自身もついにこの世を去ります。
この間、足利義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりして、権威回復に努めていました。
特に、三代将軍・足利義満以来、ほぼ伊勢氏が独占していた政所執事の座を奪い、義輝の義理のイトコにあたる摂津晴門に同職を与えたことは、将軍親政の足がかりとなりました。
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政所は室町幕府の財政と領地関係の訴訟を扱う役所です。
将軍の権力や統治と密接に関わっていますね。
義輝からすると、何をやるにしても、ここをおさえなければいけなかったワケです。
※北条早雲こと伊勢宗瑞もこの伊勢一族ですから、単なる浪人どころかきちんとした一族だったことがご理解いただけるでしょう
三好や松永を恐れて逃亡なんてもってのほか!
足利義輝の行った親政は、当人にとっていいことばかりじゃありません。
特に、残った三好一族の危機感を強めてしまったのは、結果的に失敗でした。
長慶亡き後の三好氏では、長慶の甥・三好義継が当主になっていたのですが、彼は若すぎて実権は皆無に等しい状態。
三好三人衆と呼ばれる重臣三人と松永久秀が中心となっておりました。
彼らは当然ながら義輝を敵視し、
「あの将軍、くそウゼーな!」(超訳)
という方針を固め、さっそく動き始めます。
義輝側でも不穏な空気を感じておりました。
二条御所の堀や土塁を強固にするなど、いざというときに備えます。
ルイス・フロイス『日本史』によると、永禄の変前日、義輝は一旦京を離れようとして、御所から出ていたそうです。
しかし、義輝の近臣たちが「三好や松永を恐れて逃げ出すなんて、将軍の権威を失墜させることになる」と大反対。
義輝も死出の旅の伴をする気満々の彼らに対し、「それでも俺は逃げる!!」とは言えず、御所に戻っています。
こんな流れだと、なんだかその人たちが義輝暗殺に一枚噛んでいそうな気さえしますが、乗り込まれた後の行動を見るとそうでもなさそうです。
現代の我々からすると
「権威のために命を捨てるとか本末転倒じゃね?」
と言いたくなってしまいますがね。そこは当時の価値観ですから……。
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