永禄の変

永禄の変にて壮絶に散った13代将軍・足利義輝/wikipediaより引用

足利家

永禄の変で13代将軍・義輝自ら刀で応戦!敗死に追い込まれた理由とは

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三好三人衆&筒井軍 vs 松永久秀&三好義継軍

そんなわけで、三好三人衆からすると、興福寺は「敵の敵は味方」です。

彼らは手を組み、主に堺で久秀との攻防を繰り広げました。

一連の戦いの中で、筒井城は三人衆に奪い返されています。

しかし、事実上、三人衆の人質状態だった三好義継が脱出し、久秀に保護を求めてしまったものですから、さぁ大変。

仮にも三好氏の当主が来てくれたワケですからね。

久秀は大喜びで迎え入れ、三人衆を討つ大義名分を手に入れました。

一方、三好三人衆に味方していた筒井順慶は、筒井城の防備を固め、久秀は義継と共に多聞山城(現・奈良市法蓮町)へ移ります。

しばらく城の外で戦っていると、その戦闘の最中に久秀は、陣地にできそうなエリアの寺院を次々に焼いてしまいます。

この地域の寺院の中には、久秀に贈り物をして機嫌を取ったところもあったといいます。

構図としてはこんな感じです。

【三好三人衆&筒井軍】
vs
【松永久秀&三好義継軍】

両者の戦いは長丁場に入り、次第に後者が押されていきました。

状況を打開すべく、久秀は三人衆軍の本陣があった東大寺を奇襲。

この戦いの中で、失火もしくは偶発的な事故から東大寺が燃えてしまいます。

これと後々の経緯を指して

「久秀は歴史ある東大寺を焼いたからバチが当たったんだ」

と言われるようになるのですが、東大寺炎上の原因はハッキリしておりません。

もちろん、久秀が焼いた可能性はゼロではありませんが、周辺の寺院を焼いた話と混同されている可能性も否めません。

まぁ、日頃の行いですわ。

ちなみに、このとき焼かれた大仏と大仏殿が両方再建したのは、実に120年以上も後の1680~1700年代(貞享・元禄年間)でした。

お察しのとおり江戸時代です。

 

幕府機能がいよいよヤバイことに

東大寺の激戦でさすがに反省したのか。

その後、両軍は信貴山城(現・奈良県生駒郡)や多聞山城を舞台に戦い続けます。

三好軍は、久秀の居城・多聞山城を包囲するところまで行きましたが、久秀方の士気は高く、また多聞山城も堅牢だったため、なかなか落ちません。

城攻めって、基本的に城方が有利ですしね。

これまた余談ですが、多聞山城の「多聞」は多聞天=毘沙門天のことです。

城内に多聞天を祀っていたことからその名を城の名にしたそうで。霊験と言っていいんですかね。

さて、これらの戦いとほぼ同時並行で、朝廷では頭を抱えていました。

かつて似たような状況に陥った【嘉吉の乱】のときは、赤松満祐の目的が「将軍義教だけの暗殺」だったため、管領以下他の幕臣の生き残りが多く、幕府機能は一応維持できていました。

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しかし、永禄の変では将軍も奉公衆も全滅してしまった上、管領家もボロボロ。

さらに、三好・松永が足利義栄、朝倉氏が足利義昭と、別の将軍候補を掲げていたため、余計対応が難しくなっています。

義栄も義昭も、二人とも血筋としては問題ないだけに、かえって判断がつきかねることになりました。

 

ついに信長の台頭へと時代が導かれ

こうなると上洛したほうが先に将軍に――。

そんな状況で、近畿では上記の三人衆と久秀の内紛が続き、朝倉氏は一向一揆対策に追われて、それどころではありません。

そこで朝廷は、義栄・義昭双方の将軍候補に対して取り敢えず「一万疋(百貫)献金してくれたら将軍宣下するよ」(意訳)と連絡します。

これに対し、義栄は一万疋の献金を半分に値切り、永禄十一年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けました。

しかし、京都の情勢が相変わらず不安定だったため、上洛はできていません。

そうこうしているうちに、義昭は朝倉氏を去って織田信長を頼ります。

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信長は義昭を擁し、義栄が将軍宣下を受けてから7ヶ月後の永禄十一年9月に、道中の全てをなぎ倒しながら上洛しました。ついでに三好三人衆を追い出し、久秀と義継は信長に降伏。

さらに、義栄は上洛できないまま病死したため、朝廷は上洛したばかりの義昭を正式な十五代将軍に任じました。

これで一応、永禄の変から始まる混乱は一旦収束します。

が……この後は義昭と信長の不和が持ち上がってきて、戦国時代のラストへ向かっていくのです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
永禄の変/wikipedia

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