蘆名家滅亡

伊達輝宗(左)と伊達政宗/wikipediaより引用

蘆名家

戦国蘆名家はなぜ滅亡した? 会津が輝宗&政宗親子の手に落ちるとき

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
蘆名家の滅亡
をクリックお願いします。

 

春になれば戻るかと思っていた伊達家ですが、一向に帰ってくる気配はありません。

政宗はイライラしながら、レター攻勢を仕掛けます。

大内、こら、早く来いよ、戻れよ、顔を見せろよ。そう急かす。遠藤基信ら家臣まで、催促に動員されております。

「戻れよ〜。殺さないからさ〜。知行もやるってば〜。米沢までカモンカモン」

「ありがたいお言葉ですが、たとえ滅亡しようと伊達だけは、無・理・で・す」

「は? もうあいつはぶち殺すしかない!」

「おいっ、そのくらいでいちいち殺さない!」

政宗がガチギレして、ブレーキをかけたのが輝宗でした。

それでもおさまらず、政宗は片倉景綱ら家臣を派遣して詰問しまくるのです。

片倉小十郎景綱
政宗の参謀・片倉小十郎景綱は冷徹苛烈な武将?59年の生涯まとめ

続きを見る

しかし、定綱は強気でした。

「この大内定綱が最も好きな事のひとつは、自分で強いと思ってるやつにNOと断ってやる事だ……戦場で決着つけようぜ、じゃっ!」

定綱のことはいいから、蘆名の話にしよう。

そう言いたくなるかもしれませんが、実は両者には関係があるのです。

 

【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

どうしてこの状況に、蘆名家が関係あるのか?

定綱が頼れる勢力が、他ならぬ蘆名家でした。

政宗の中での図式は、こうなります。

【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

もう、ともかく何かを殴らないと気分がおさまらない!

現代人なら格闘ゲームやボクササイズがありますが、政宗は戦国大名ですので、そこは合戦。

「むしゃくしゃしてやった! 蘆名でもよかった!」

動機を一行でまとめると、こうなりかねない。

そんな独眼竜が家督相続後に挑んだ戦いが【関柴合戦】です。

絵・富永商太

えっ、政宗さん……そんなこと知りたくなかった!

もう嫌だ!

現実を否定したくなる気持ちはわかります。

私も、つらい。しかし、史実根拠があるんです……。

米沢と会津は近接しておりました。米沢街道が現在も残っております。

5月、ここを怒涛の勢いで攻めのぼり、檜原城近辺を攻略。

ちなみに現在は桧原湖(→link)が有名ですが、当時は存在しません。磐梯山の噴火により、明治時代以降生まれたのです。

そう言えば……伊達政宗が若くして当主になったことから、周辺大名をこうみなす意見を見かけたことがあります。

「いい歳こいて、まだ高校生くらいの政宗に酷くない?」

その理屈を適応しますと、蘆名家相手の政宗の振る舞いはこうなります。

vs亀王丸←親戚の乳幼児を殴る高校生の政宗

vs蘆名義広←周囲の制止を振り切って、中学生を殴り倒す大学生の政宗

政宗を擁護すると、ブーメランで政宗に突き刺さってしまう、そんな状況だったんですね。

 

レッツ・パーリー♪ 蘆名を滅ぼし会津ゲットだぜ

このあと、南奥羽(現在の福島県)は、政宗のパーリータイムによって荒らされまくります。

天正13年(1587年)の輝宗死後は、まるでブレーキが壊れたダンプ。

この輝宗の死については、虎哉宗乙が全力でダメ出ししているほど、無茶苦茶な経過でした。

彼自身の問題だけではなく、きょうだいが少なくて武力攻勢しかない、そんな事情もありますが、ともかく暴れん坊の甥に対して、せっかく伊達家とコンビを結成していた最上義光もついていけない。

伊達家と最上家が援軍を出し合うこと、贈答、書状のやりとりは続いますが、次第に苦々しい関係になっていきます。

「義光って、カッコつけているだけのカスじゃね?」

「政宗はやばい。あんな非常識なクソガキ、信じちゃダメ」

裏では互いを牽制し、罵倒し合うという、ギスギスした親戚(伯父と甥)でした。

とはいえ、そんな義光の苦悩だって、蘆名家に比べたらマシでしょう。

天正14年(1586年)、第19代・亀王丸が疱瘡で死去してしまうのです。わずか3歳でした。

ここで政宗は、こうなります。

「チャンス到来だ! 蘆名(会津)をゲットだぜ!」

 

そして会津蘆名家は滅びた

政宗は、父祖のようにきょうだいが多くはありません。

カードとなるのは、弟の小次郎のみ。

彼を蘆名家当主にすれば、伊達家の配下になるようなもの。そこで政宗は、蘆名の後継ぎとして小次郎を猛然とプッシュします。

はたして蘆名家の選択は?

佐竹義重さんの二男を後継者にします」

「ぬぐぐぐぐぅううううう!」

天正15年(1587年)。

こうして佐竹家から迎えられた義広が、蘆名家第20代当主となりました。

この決定に対して、政宗がどれだけムカついたか。

「はぁ? よりにもよって俺が大嫌いな佐竹からって、喧嘩売ってんの?」

天正13年(1587年)の【人取橋の戦い】で、政宗は佐竹義重を相手に戦い、危うく死にかけております。

伊達成実の奮闘により命からがら戦場から逃げ出せたのです。

人取橋の戦い
人取橋の戦いで崖っぷち政宗!伊達軍7,800vs35,000連合軍でどうする

続きを見る

このころ、政宗をさらにヒートアップさせる事態も発生します。伊達成実経由で、こんなオファーが届いたのです。

「会津に潜伏している大内定綱、伊達家に帰参したいってよ」

「ん? わざわざ殺されにきたいってか? どうしようかな♪」

「ただでさえ会津で人望ないのに、そういうノリ、やめてくださいよ……」

このあたりの詳細はハッキリしておりませんが、ノリノリの政宗を、片倉景綱が頑張っておさめたようではあります。

狙いもあったのでしょう。

「大内定綱は、会津の政情や地理を知っています。蘆名を倒すのであれば、あいつは泳がせた方が無難です」

「そうだな、言われてみれば、蘆名の方が俺にしつこく喧嘩を売ってんだよ(※政宗側の認識)。優先的にあっちから潰す」

そんな思惑の中、天正16年(1588年)、大内定綱は政宗に降ります。これを契機に蘆名家は、政宗によって骨抜きにされてゆくのです。

盛氏の死後、蘆名は空中分解しつつありました。

戦国期のど真ん中で、中興の祖(盛氏)が現れたかと思ったら、その直後から次々に当主が替わっていくのですから致し方ないところでもありましょう。

潮目は完全に政宗に向いてきました。

有力家臣の猪苗代氏も、伊達家に接触し始めています。

猪苗代は、盆地である会津に攻め入る地理的な要素としても、重要でした。

幕末の「会津戦争」でも、猪苗代陥落がターニングポイントとなっております。

政宗からすれば、これはもう敵に王手をかけたようなもの。

会津戦争(会津と長州)
なぜ会津は長州を憎む?会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄

続きを見る

この流れの中で、政宗の親族にあたる彦姫も没してしまいます。

かくして、政宗にとって蘆名を潰す上での障害が消滅。

天正17年(1589年)【摺上原の合戦】へとなだれ込み、政宗はついに蘆名家に大勝利をおさめて因縁の地・会津を獲得するのでした。

会津の黒川城は抵抗することなく、あっさりと開門するほかありません。

摺上原の戦い小田原参陣
政宗の二大イベント「摺上原の戦い・小田原参陣」は共に6月5日勃発

続きを見る

蘆名義広は実家の佐竹氏を頼るため、常陸へ逃走。

かくして、佐原義連以来続いていた、会津支配者としての蘆名家は終焉を迎えるのでした。

※その後、義広は佐竹氏の秋田転封に従い、亡くなったのは1631年7月6日(寛永8年6月7日)のことでした

あわせて読みたい関連記事

佐原義連
頼朝に認められ佐原義連(三浦一族)から始まった会津の雄・蘆名一族

続きを見る

蘆名盛氏
蘆名盛氏・会津の名将が伊達と組み武田や北条とも繋がった手腕とは

続きを見る

愛姫(陽徳院)伊達政宗の正室
政宗の正妻・愛姫(陽徳院)が背負った名門の重責~坂上田村麻呂の家

続きを見る

最上義光
最上義光(政宗の伯父)は東北随一の名将!誤解されがちな鮭様の実力

続きを見る

義姫
政宗の母で義光の妹「義姫」は優秀なネゴシエーター 毒殺話はウソ

続きを見る

馬と戦国武将
戦国武将と馬の関係とは? 名馬マニアな信長は100頭以上を所持

続きを見る

鷹狩
信長も家康も熱中した鷹狩の歴史~日本最古の記録は仁徳天皇時代なり

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

林哲『会津芦名四代(歴史春秋社)』(→amazon
林哲『会津芦名一族(歴史春秋社)』(→amazon
野口信一『会津ちょっといい歴史(歴史春秋出版)』(→amazon
遠藤ゆり子『東北の中世史4 伊達史と戦国騒乱(吉川弘文館)』(→amazon
高橋充『東北の中世史5 東北近世の胎動(吉川弘文館)』(→amazon
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会(吉川弘文館)』(→amazon

TOPページへ

 



-蘆名家
-

×