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【朝倉景鏡】
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朝倉家中のトラブルメーカーに成長
朝倉景鏡は家中のトラブルメーカーとして数々の問題を起こします。
例えば永禄7年(1564年)。
加賀一向一揆の討伐を目論みながら、宗滴の死によって中断されていた朝倉家は、戦いを再開させようとしておりました。
そこで義景は、景鏡と朝倉景隆(景鏡と同じく義景の従兄弟)を大将にして、加賀に出陣させます。
さらには別の従兄弟・朝倉景垙(かげみつ)も参陣させたのですが、あろうことか彼らが喧嘩を始め、最終的に、敗れた景垙が自害する事件に発展しまったのです。
いったい何があったのか? 誰が悪かったのか?
真相は不明ながら、そもそも敵陣へ向かう最中に内輪でケンカをおっぱじめる時点で言語道断であり、本来であれば「喧嘩両成敗」となる案件です。
結局、業を煮やした義景自らが出陣する羽目になり、攻撃のさなかに越前の国衆に背かれるなど、家中の内紛は収拾がつかなくなっていました。
家中の統率がとれていれば、景鏡が処断されても不思議はありません。
しかし、問題は当主の義景にもあったようです。
とにかく決断力がありません。
4年後の永禄11年(1568年)に、足利義昭が織田信長に奉じられて上洛を果たしますが、そもそもは朝倉家を頼ったことはよく知られた話でしょう。
そして、そのチャンスを棒に振ったのも有名です。
何やら決断力に欠ける戦国大名・朝倉義景――。ゆえに景鏡の処分も出来ず、次第に名門・朝倉家も傾いていくのでした。
朝倉氏を滅ぼそうとしているのか?
元亀年間(1570年~)に入ると、朝倉氏は織田信長の急速な台頭によって危機的状況へ追い込まれます。
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信長は上洛の命令を黙殺した朝倉氏に大軍を派遣。手始めに天筒・金ヶ崎城を守る朝倉景恒を襲撃します。
圧倒的不利な状況下において、景恒はよく戦ったとされます。
しかし、彼の救援をするはずだった景鏡はなかなか合流しようとせず、最終的に涙をのんで落ち延びていった景恒を見殺しにする格好になりました。
しかも奮戦していたはずの景恒は「城を明け渡すなど朝倉の恥」と責められ、隠居を余儀なくされています。
一方の景鏡には大した処罰の跡が見えません。
これは一体どうしたことか……。
結局、このときの朝倉方は浅井長政の裏切りによって窮地から脱したばかりか、信長を討ち取る最大のチャンスを手にしますが、景鏡を中心にした信長追撃軍は出陣が遅く、大きな戦果を挙げることができません。
俗に言う【金ヶ崎の退き口】ですね。
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浅井と朝倉に挟撃されたはずの信長は、無事、京都へ戻ったのです。
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朝倉義景はどこまでマヌケなんだ……。
戦国ファンにはそう思われがちなこの金ヶ崎での一件、実は朝倉景鏡の責任が大きいとも言えます。
いずれにせよ、ここで信長を逃したことが朝倉家の趨勢にも大きく影響することになりました。
態勢を立て直した織田軍は徳川軍と共に近江へ出陣、浅井朝倉の連合軍と姉川で激突します。
このとき浅井朝倉軍は、一時、勝利に近づくものの、最終的には織田徳川軍に押し返され、朝倉陣営においては怪力無双の真柄直隆が本多忠勝に討ち取られてしまうという一幕も伝わっています。
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その後、織田信長との争いは一進一退を繰り返し、比叡山や足利義昭との連携で信長を追い詰めることにも成功します。
しかし、それでも討ちきれずにいると、今度は比叡山焼き討ちや武田信玄の死などによって立場が逆転。
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朝倉家当主・義景の優柔不断さが元凶だったとも非難されがちです。
が、実はその背景では、景鏡ら反抗的な家臣たちの存在により、義景が即断即決できなかったという事情もありそうです。
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