ケーキやポテチもよいけれど、“和菓子”は腹持ちも日持ちもよく、何といってもお茶との相性が抜群です。
「男が甘い和菓子を食べるってちょっとなぁ」
そんな風に思っている皆さまは、ちょっとお待ちください。
天下人である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、そして多くの武将たちも愛したのが和菓子です。
女性的とか男性的とか気にしているのはもったいない。
本稿では、権力者を虜にし、庶民に愛された和菓子の歴史をたどってみましょう
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甘味料は凄まじく貴重なものだった
天正10年(1582年)、本能寺の変直前。
日頃の苦労をねぎらおうと、織田信長が徳川家康に食事を振る舞い、ズラリと並んだ豪華絢爛な料理の中には、大量の菓子もありました。
当時は砂糖が高級品であり、信長がここぞというおもてなしのときに振る舞っていたものです。
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信長が生きた時代は、日本の歴史において甘味の転換点でした。
古代の人々にとって、食事以外に食べる「菓子」とは、果物や木の実など。
奈良時代になると、仏教伝来とともに中国から餅や穀物の加工品である食べ物が伝わり、これらを「菓子」と呼ぶようになったわけです。
甘味料は、当時、むちゃくちゃ貴重なものでした。
餅や饅頭にしても、塩や味噌で味をつけるのが一般的で、たしかに飴や蜂蜜、甘葛といった甘味料もありましたが、大量に使われることはありません。
状況が変わるのは、まさに信長の時代で、キッカケは宣教師たちの日本上陸であります。
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食の鉄砲伝来
このころヨーロッパでは、砂糖が権力者の味として普及しておりました。
かの英国女王・エリザベス一世は、砂糖の取りすぎで歯がボロボロになっていたとか。
はるばる海を越え、欧州から日本へ上陸した宣教師たちは、祖国で流行していた「南蛮菓子」を布教の際に配布したのです。
「甘い菓子に釣られて日本人がキリスト教に興味を持たないかな?」
なんて考えたのでしょうか。宣教師たちは、布教の許可を求めるために面会した信長にも、土産として菓子を持参します。
そして、その衝撃たるや……。
砂糖や卵をたっぷりと使った味わいは完全に未知のもの。
カステラ、金平糖、カルメラ、有平糖……と口内で広がる強烈な甘みは、信長にとっても甘美なものだったのです。
例えて言うなら「食の鉄砲伝来」でしょうか。
長篠の戦いで鉄砲3千丁! ならぬ、大量の砂糖を菓子に投下!
この南蛮渡来の技術を信長が取り入れたのは当然のことでした。
それまでは味噌や塩味であった饅頭のあんが甘くなるのも、この頃からだったのです。
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安土での饗応で家康にふるまった甘い菓子を列挙しておきましょう。
・羊羹
・薄皮饅頭
・羊皮餅(詳細は不明)
・まめあめ(大豆をいり飴で固めたもの)
・おこし米(餅米を入り飴で練ったもの)
いかがでしょう?
現代人の我々から見れば
「いかにも甘そう」
「歯に粘りつきそう」
「なにもこんなに……」
と不思議がられるかもしれません。
クドいようですが、当時の砂糖は最高の珍味であり、高級品であったのです。
歯を飴でねばつかせながら、家康は「こんなに甘い菓子をたくさん用意できる信長さんって……( ゚д゚)」と思ったでしょう。
甘いは凄い。
そういう時代だったのです。
秀吉と「お茶菓子」は最高の文化
家康を安土で接待した直後、信長は「本能寺の変」において波乱の生涯を終えます。
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もしも長生きしていたら、どんな菓子をふるまったのか、新しくどんな菓子が作られたか。興味はつきないところですが、それを知ることはできません。
代わって天下人となったのが、豊臣秀吉です。
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この時代に流行した文化といえば、何と言っても「茶の湯」です。
最高の茶人が、最高の茶器と茶室で、最高の菓子を添えていただく――。
茶の湯は、まさに最高の文化でした。
また茶道の持つ美的センスにあわせて、ただやたらと甘いだけではなく、形も凝った菓子が作られるようになります。
そんな秀吉の注文に応じて、菓子を作ったのが老舗の「虎屋」です。
虎屋さんの公式サイトの中には年表もあり、「室町時代後期 京都で創業する」と記されておりますね。
実に五百年もの歴史がある老舗。
その「虎屋」が御所御用(天皇の住まう御所等に商品を届ける商人)になったのは、後陽成天皇の頃からで、秀吉が天下統一したころと同時期でした。
天下人と天皇という二大顧客を持つ虎屋は、まさしく菓子屋の頂点に立つ存在です。
秀吉が主催する華々しいイベントである聚楽第への行幸等にも、虎屋の菓子が並びました。
イベント好きの秀吉が行ったものには、庶民が参加出来るものもありました。
「茶の湯に興味があるならば、身分を問わずに来るがよい」
そう呼びかけた「北野大茶会」です。
茶会に参加した中には、茶も菓子も口にするのが初めてという人もいたことでしょう。
彼らがどんな気持ちで、初めて味わう「甘い菓子」を口にしたのか。
想像するとなかなかロマンを感じますね。
家康と「嘉祥(かじょう)」
かように権力者の象徴でもある和菓子はその後どう発展していくのか。
皆さんご存知のように信長→秀吉の次に来る天下人は家康です。彼が江戸に幕府を開くと、その味も東へ東へと伝わっていきました。
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代表的な催しが「嘉祥(かじょう・嘉定とも)」でしょう。
江戸幕府では毎年6月16日、菓子を配る行事を行っておりました。
米一升六合が家臣に配られ、この米で菓子を買うと厄除けになるとされていたのです。
別の説によりますと、「武家が弓で的を射て、負けた側が勝った側に嘉定通宝16枚分の食べ物を贈る」というルーツもあるとか。
武家の間では「かづう」が「勝つ」に通じるとし、戦勝祈願のためにも同行事を尊んでいたのです。
これはもともと秀吉ら他の武家も祝っていた行事ですが、家康も幕府の成立前から行っており、後に「嘉祥頂戴」として大々的に催されるようになりました。
例えば元亀3年(1572)【三方ヶ原の戦い】直前、家康は勝利を祈願して「嘉定通宝」を拾い、家臣より献上された菓子を配ったと言われています。
まぁ、結果的に武田信玄に大敗してしまうんですけどね。
それでも「嘉祥とは、権現様(家康)にあやかったものである」として江戸時代に大々的に定着するのです。
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