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【今井宗久】
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信長から事実上の堺支配を任される
かくして信長への急接近を実現させた宗久。
自治都市であった堺から、信長が「2万貫の軍用金」を調達しようとした際、反発して抗戦を訴えた堺の保守派を説得、戦争を回避しました。
この功によって信長による評価は一段と高まり、摂津国住吉の地にて2200石の領地を与えられ、さらには山城国・摂津国の倉入地と、堺の代官にも命じられました。
事実上の堺支配者として信長に認められたのです。
いわば政商として都市を牛耳る存在になったわけですが、信長から与えられた特権はこれだけにとどまりません。
宗久の持ち船には淀川沿いの関銭が免除され、茶人としても茶頭(茶人たちのトップ)に任命、政治面でも私人としても、信長と強い結びつきを持つようになります。
元亀元年(1570年)には、生野銀山に目を付けた信長によって但馬国へ派遣され、この地域の経営まで任されていたのでは?という説があるほど。
現代で言えば財閥のトップが、財務大臣と文部科学大臣を任命されていたようなものかもしれません。
宗久は堺町衆と信長をつなぐパイプ役として大きな成果を挙げ、天正3年(1575年)ごろから、新たに堺の代官に就任したと思われる松井友閑にも一目置かれていたと言います。
もちろん本業も絶好調。
需要が激増した鉄砲生産で巨万の富を築き、茶人としては名物『開山の蓋置』も信長に進上するなどして、信長が訪問した際には茶会を主催して積極的に彼の関心を引きました。
堺トップの商人かつトップの茶人――宗久は単なる「茶坊主」ではない、織田家の重要人物としてのし上がっていたのでした。
しかし……。
我が世の春を謳歌する宗久に、衝撃の事件が訪れます。
信長の死後、秀吉からは軽んじられた
事件とは他でもありません。
天正10年(1582年)6月2日に起きた【本能寺の変】です。
織田信長が明智光秀によって討たれた、日本史上でも衝撃の一大事。
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宗久は変の前日に、信長の命で徳川家康をもてなす茶会を開いていました。
家康は【神君伊賀越え】と呼ばれる逃避行で、命からがら堺から地元へ逃げ帰り、当日以降の宗久は詳細が不明ながら、秀吉への取次も無事に済ませたのでしょう。
【山崎の戦い(秀吉vs光秀)】や【賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)】に勝利した豊臣秀吉に取り入り、宗久は引き続き茶頭の地位を保証されました。
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ところが、です。
同じ茶頭といっても信長時代とは待遇が大きく異なっていたといいます。
それを端的に示しているのが、天正15年(1587年)に秀吉が主催した【北野大茶会】における扱いです。
この茶会では、宗久の茶席序列が千利休、津田宗及に次ぐ第3位になっていました。織田政権時代は筆頭格だったことを考えると、格落ち感は否めません。
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大坂本願寺の力を背景に?
一体なぜ宗久の地位は低下してしまったのか。
一説には「宗久は茶の湯に思い入れがない」として秀吉が疎んじたとも言われたりしますが、もっと根深い原因があるのではないでしょうか。
それが「石山本願寺」です。
宗久の待遇を考えるうえで、大きなキーになるのは「大坂本願寺の力を背景にもつこと」だとされてきました。
本願寺との結びつきが強かったとされる宗久は、信長・秀吉にしてみれば「堺」だけでなく「本願寺」とのパイプ役も期待できたわけです。
ところがこの本願寺が天正8年(1580年)、信長に屈服、石山から退去しておりました。
実はそのころから宗久の立場も悪化し始めていたのではないか?と考えられていて、信長の後を継いだ秀吉も宗久を遠ざけるようになった可能性があるんですね。
まぁ、この辺のさじ加減・政治バランスはなかなか微妙な一面があり、非常にわかりにくいのですが……。
千利休と津田宗及に負けた!
案外、そんな単純な構図だったのかなぁとも思えてきます。
なお、その千利休も天正19年(1591年)、秀吉によって切腹に追い込まれ、宗及もまた同年に没すると、その2年後の文禄2年(1593年)、今井宗久もまた失意のうちに74歳の生涯を終えます。
彼ら三人は総称して「三宗匠」と呼ばれますが、堺という都市の特質さゆえに力を握り、そしてそれが失われていくとともに衰退していたようにも感じます。
茶人というより、あくまで商人としての姿が彼らの本質なのかもしれません。
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文・とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷端昭夫『茶の湯人物誌(淡交社)』(→amazon)