文禄2年(1593年)8月5日は今井宗久が亡くなった日です。
大河ドラマ『麒麟がくる』で陣内孝則さん演じていたのを覚えている方も多いかも知れません。
涼しい顔して茶を点てながら、日本一の交易都市・堺を牛耳る大商人――。
堺というと「豊臣秀吉と千利休」の関係も浮かんできますが、それ以前は織田信長と今井宗久が中心となって切り盛りされていたものです。
果たして彼はドラマのように一癖も二癖もある商人だったのか?

今井宗久/wikipediaより引用
本稿では史実の今井宗久を振り返ってみたいと思います。
納屋・火薬業者として名を上げた今井宗久
今井宗久は、永正17年(1520年)に生まれました。
父親は不明ながら、近江の国衆で高島郡に「今井の城」を有した今井氏の出身であるとされます。
あるいは異説では、大和国の今井荘という地域で生まれたともされますが、いずれにせよ宗久の出自はよくわかっていないというのが実情。
「有名な茶人だし、先祖代々の秘技を受け継いでいたりするのか……」なんて思っていたら、少々意外かもしれませんね。
青年期の宗久は、一説では石山本願寺を頼って堺へ上ったとされ、そこで納屋宗次という商人の世話になりました。
納屋宗久は「納屋」を称しているだけあって、堺の納屋としては筆頭といえる存在だったとされます。
といっても現代のような物置を管理していたわけではありません。
当時屈指の交易都市だった堺で倉庫業を営み、主に海産物を保管していたようです。
こうして多額の利益を得ていたと思われる宗次のもとで力をつけた宗久は、やがて独立。
師から学んだ納屋業に加え「これからは鉄砲の時代だ!」と火薬業、鉄砲生産にも関わったとされます。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用
時代のトレンドを見事に見抜いた宗久は、商才も抜群だったのでしょう。
天文20年(1551年)にはその名が史料にも登場し、堺において知行地をもつ成功を収めていたといいます。
一般的に「茶人」のイメージが先行しがちな宗久ですが、大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれているように、その第一歩は「商人」でした。
茶人としても活躍をはじめる
宗久が茶人として活動を始めるのは、堺に上った後のことです。
彼は堺で豪商として、同時に優れた茶人として知られる武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶を習い始めました。
この紹鴎の門人が凄い。
千利休や津田宗及というビッグネームが揃い、宗久が受けた影響もひとしおだったことでしょう。
実際、宗久は、紹鴎の娘と結婚して女婿となっており、茶の実力もめきめきと伸びていきました。このころには、自身で茶会を主催するなど、本業顔負けの成果を残すようになります。
一方、宗久が属する堺の街は自治的な性格をもっており、畿内で覇を唱えた三好長慶政権とは距離を置いていました。

三好長慶/wikipediaより引用
宗久はすでに商人としても一流の存在になっており、彼も堺と同じく、三好政権から距離をとる選択肢もあったはずです。
しかし、宗久自身は長慶の弟である三好実休や松永久秀と親交があり、彼らを利用して政商として大きな富を手にするようになります。
かくして商人としても茶人としても成功を収めた宗久。
すべてが順風満帆だったわけではなく、弘治元年(1555年)に紹鴎が亡くなると、彼の遺産をめぐって紹鴎の息子・武野新五郎と泥沼の遺産争いが繰り広げられます。
普通に考えれば、中世でも現代でも遺産は娘の夫ではなく嫡子に優先して配分されるものです。
しかし、紹鴎が有していた名物『茄子茶入』や『玉瀾筆の波の絵』などの遺産がことごとく宗久の手にわたっていました。
高価な芸術品の一切合切が宗久の手にわたるということは、事前の遺言などで譲り渡す意思が示されていたのでしょう。
息子の立場からしてみればキレたくなるのも納得です。
紹鴎息子との裁判を有利にするため接近?
三好政権との結びつきが強かった宗久。
やがて東から織田信長が上洛するという報を聞きつけると、にわかに事態が動き始めます。
三好党は信長と敵対する構えを見せていましたが、宗久は親しくしていた久秀が即時降伏の意向を示したこともあり、追随する形で信長に接近するのです。

織田信長/wikipediaより引用
そのアプローチの仕方が思い切ったものでした。
松島由来の茶器に加え、なんと裁判中であるはずの紹鴎遺産『茄子茶入』を献上したのです。
「裁判中の茶器を渡して、大丈夫なのか? もし敗訴したらどうなる?」
そう思われる場面ですが、この「裁判中の茶器を譲る」ことこそが宗久の策略だったと目されています。
当時の宗久と信長のヤリトリを妄想で再現してみますと……(本来は「信長様」と諱で呼ぶことはありませんが、分かりやすさ重視で進めますと……)。
宗久「信長様、お近づきのしるしにこの品をお収めください!」
信長「うむ、殊勝なことよ。これはどういった茶器なのか?」
宗久「我が師であり、我が義父でもある紹鴎遺産の『茄子茶入』でございます。しかし、こちらは現在紹鴎の息子と裁判になっている品でして…」
信長「そんな代物をこのワシに?」
宗久「実は私に考えがございまして。信長様のお力で私を裁判に勝たせてくだされば、そちらは問題なく差し上げることができます。お互いに得のある話ではないでしょうか?」
信長「ほほぅ」
とまぁ、信長に裁判でのとりなしを願ったのではないかと考えられています。
実際、信長が裁定した裁判で宗久が全面勝訴を勝ち取っているのです。
そもそも裁判を有利に運ぶため信長に接近したという側面もあったとされ、戦国期商人のしたたかさが浮かび上がってくる、興味深いエピソードであります。
信長から事実上の堺支配を任される
かくして信長への急接近を実現させた宗久。
自治都市であった堺から、信長が「2万貫の軍用金」を調達しようとした際、反発して抗戦を訴えた堺の保守派を説得、戦争を回避しました。
この功によって信長による評価は一段と高まり、摂津国住吉の地にて2200石の領地を与えられ、さらには山城国・摂津国の倉入地と、堺の代官にも命じられました。
事実上の堺支配者として信長に認められたのです。

江戸時代の『和泉名所図会』に描かれた鉄砲鍛冶の様子/wikipediaより引用
いわば政商として都市を牛耳る存在になったわけですが、信長から与えられた特権はこれだけにとどまりません。
宗久の持ち船には淀川沿いの関銭が免除され、茶人としても茶頭(茶人たちのトップ)に任命、政治面でも私人としても、信長と強い結びつきを持つようになります。
元亀元年(1570年)には、生野銀山に目を付けた信長によって但馬国へ派遣され、この地域の経営まで任されていたのでは?という説があるほど。
現代で言えば財閥のトップが、財務大臣と文部科学大臣を任命されていたようなものかもしれません。
宗久は堺町衆と信長をつなぐパイプ役として大きな成果を挙げ、天正3年(1575年)ごろから、新たに堺の代官に就任したと思われる松井友閑にも一目置かれていたと言います。
もちろん本業も絶好調。
需要が激増した鉄砲生産で巨万の富を築き、茶人としては名物『開山の蓋置』も信長に進上するなどして、信長が訪問した際には茶会を主催して積極的に彼の関心を引きました。
堺トップの商人かつトップの茶人――宗久は単なる「茶坊主」ではない、織田家の重要人物としてのし上がっていたのでした。
しかし……。
我が世の春を謳歌する宗久に、衝撃の事件が訪れます。
信長の死後、秀吉からは軽んじられた
事件とは他でもありません。
天正10年(1582年)6月2日に起きた【本能寺の変】です。
織田信長が明智光秀によって討たれた、日本史上でも衝撃の一大事。
宗久は変の前日に、信長の命で徳川家康をもてなす茶会を開いていました。
家康は【神君伊賀越え】と呼ばれる逃避行で、命からがら堺から地元へ逃げ帰り、当日以降の宗久は詳細が不明ながら、秀吉への取次も無事に済ませたのでしょう。
【山崎の戦い(秀吉vs光秀)】や【賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)】に勝利した豊臣秀吉に取り入り、宗久は引き続き茶頭の地位を保証されました。

絵・富永商太
ところが、です。
同じ茶頭といっても信長時代とは待遇が大きく異なっていたといいます。
それを端的に示しているのが、天正15年(1587年)に秀吉が主催した【北野大茶会】における扱いです。
この茶会では、宗久の茶席序列が千利休、津田宗及に次ぐ第3位になっていました。織田政権時代は筆頭格だったことを考えると、格落ち感は否めません。

長谷川等伯が描いた千利休像/wikipediaより引用
大坂本願寺の力を背景に?
一体なぜ宗久の地位は低下してしまったのか。
一説には「宗久は茶の湯に思い入れがない」として秀吉が疎んじたとも言われたりしますが、もっと根深い原因があるのではないでしょうか。
それが「石山本願寺」です。
宗久の待遇を考えるうえで、大きなキーになるのは「大坂本願寺の力を背景にもつこと」だとされてきました。

織田軍と石山本願寺が約10年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用
本願寺との結びつきが強かったとされる宗久は、信長・秀吉にしてみれば「堺」だけでなく「本願寺」とのパイプ役も期待できたわけです。
ところがこの本願寺が天正8年(1580年)、信長に屈服、石山から退去しておりました。
実はそのころから宗久の立場も悪化し始めていたのではないか?と考えられていて、信長の後を継いだ秀吉も宗久を遠ざけるようになった可能性があるんですね。
まぁ、この辺のさじ加減・政治バランスはなかなか微妙な一面があり、非常にわかりにくいのですが……。
千利休と津田宗及に負けた!
案外、そんな単純な構図だったのかなぁとも思えてきます。
なお、その千利休も天正19年(1591年)、秀吉によって切腹に追い込まれ、宗及もまた同年に没すると、その2年後の文禄2年(1593年)、今井宗久もまた失意のうちに74歳の生涯を終えます。
彼ら三人は総称して「三宗匠」と呼ばれますが、堺という都市の特質さゆえに力を握り、そしてそれが失われていくとともに衰退していたようにも感じます。
茶人というより、あくまで商人としての姿が彼らの本質なのかもしれません。
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【参考文献】
『国史大辞典』
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷端昭夫『茶の湯人物誌(淡交社)』(→amazon)




