連歌

明智光秀/wikipediaより引用

文化・芸術

光秀も藤孝も幸村もハマっていた~連歌が戦国武将に愛された理由とは

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連歌が必要とされた4つの理由

連歌は一見、娯楽のようにも思えますが、そうではありません。

戦国武将にとっては必須のスキル、欠かせないイベントでもありました。

理由をまとめてみます。

連歌が戦国武将に愛された主な理由4つとは、以下の通りです。

① 武士にとっての理想は文武両道である

当代きっての教養人・細川藤孝(細川幽斎)は、こんなどストレートな歌を残しております。

歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ

意味としては「和歌や連歌、乱舞、茶の湯を嫌う人って、育ちのほどがわかっちゃいますよねえ、オホホホ」という感じでして。

もはや武士だからと弓馬だけが得意では、「お里が知れますね」と笑われる時代であったのです。辛いなぁ。

細川藤孝(細川幽斎)
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②家中恒例行事として

連歌会は雰囲気を大事にします。

なので新年や祝い事の晴れやかな場で行われることがよくありました。

例えば伊達家では毎年1月7日に「七草連歌」、または「若菜連歌」と称する連歌会を開催。

天正18年(1589年)、会津征圧の翌年に政宗がこの席で詠んだ句からは、広大な会津を一気に手にした自らの功績を、七草を摘む歌になぞらえています。

七種を一葉によせてつむ根芹

伊達政宗の得意げな様子が伝わってくるようです。

こうした家中恒例行事としての連歌会は、家の格式を高めるとともに、参加者同士の結束を強くする役目もありました。

江戸時代になると、将軍家が「柳営連歌」という公式行事を実施しました。そういう意味では、現代の社員草野球大会みたいなものですね。

③ 情報収集・外交

大名家主催の連歌会には、プロの連歌師が呼ばれることもありました。

彼らは、特に怪しまれることもなく武家に出入りし、会話をすることもできるために情報収集も可能。イベントを開くというだけではなく、連歌師から情報を得ることができるのです。

そのため特定の家に仕えず、名家を渡り歩くフリーの連歌師もいれば、大名家お抱えの連歌師もいました。

お抱え連歌師は、大名家と公家との間をつなぐ役目、使者としての役目を果たすことがありました。ただの芸術家ではなく、外交官の役目もあったのです。

ただし、そうした連歌師の性質上、政治の混乱に巻き込まれることもありました。

多くの戦国大名と信仰のあった高名な連歌師・里村紹巴は、関白・豊臣秀次のいる聚楽第に毎日のように登城。

そのため、秀次失脚時に罪に問われ、家財没収の上流罪処分を受けています。

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④戦勝祈願

連歌は人と人を結ぶだけではなく、神に捧げるものであるという考え方もありました。

優れた歌は神をも感動させ奇跡を起こす、そう考えられていたのです。

連歌を興行することで、神を喜ばせる。

縁起のいい歌を詠み、ツキを引き寄せる。

こうした宗教的な要素もあったため、合戦前の戦勝祈願として連歌を興行することもあったのです。

代表的なのが、それこそ明智光秀でしょう。

本能寺の変直前の「愛宕百韻」において詠んだ発句、

ときは今 あめが下しる 五月かな

は、表向きは毛利攻め、しかし実は織田信長への謀叛成功を祈願したものであった——という話は有名です。

愛宕百韻(愛宕山連歌会)
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ただしこれは解釈次第で、そうこじつけるのは深読みであろう、とも言われています。

信長への叛意を詠んでいたらもちろん面白いんですけどね。実際のところはわかりません。

いずれにせよ連歌がコミュニケーションだけではなく、様々な用途において活用されていたのは間違いありません。

 

「なかなか上達しない……」とこぼす真田信繁

このように様々な用途があった連歌ですから、名のある武将も嗜んでおりました。

例えば真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦い後、九度山に蟄居してから連歌を学び始めました。

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「なかなか上達しない」とこぼしているものの、心から楽しんでいたようで、いずれは興行をしてみたいと兄・信之宛の手紙に書いています。

こうした素朴な楽しみ方をする武将もいれば、プロ連歌師も一目置く武将もいます。

前述の細川藤孝(細川幽斎)。

彼は戦国武将の中でも随一の教養人だけに、句数も堂々の一位です。もはや別格でしょう。

出羽の大名・最上義光も連歌を好みました。

朝鮮出兵に備えた名護屋滞在中に、発句を京都まで送ったことも。

連歌の過程で疑問に思ったQ&A、自分なりに考えた参考書『最上義光注連歌新式』が残されています。

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この本は里村紹巴が添削し賞賛したそうで。よほど連歌にハマっていたんですね。

更には軍師官兵衛でお馴染みの黒田孝高(黒田官兵衛・黒田如水)も連歌を好みました。

17~18の頃は歌を好み、この道を究めて生きていこうとすら考えていたとか。

武士ならば弓馬を嗜むようにと周囲からさとされて、皆様ご存じの通り立派な武将になるわけです。

しかし、我慢していたんでしょうね。

働き盛りを過ぎて時間ができてからはよく連歌を楽しんでいました。

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残念ながら、連歌そのものの流行は、江戸期以降、廃れてしまいます。将軍家や大名家では恒例行事として続けられたものの、明治以降はそれすら行われなくなるのです。

茶の湯は現在まで残る一方で、時代の波間に消えてしまった連歌。

そうした事情のためか、映像化作品やフィクションでもほとんど出てこない、出てきたとしても断片的にしか触れられません。残念ですね。

連歌には当時の人々の置かれた状況や心情が反映されているものです。

武将の残した連歌を読み楽しむのも、歴史を学ぶ楽しさと言えるでしょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
綿坂豊昭『連歌とは何か』(講談社選書メチエ)(→amazon
綿坂豊昭『戦国武将と連歌師 (平凡社新書)』(→amazon

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