武内宿禰の盟神探湯(くがだち)月岡芳年作/wikipediaより引用

文化・芸術

戦国時代にあった恐怖の風習『鉄火起請』焼けた鉄を素手で握ったら死に至る?

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信長だけじゃなく本多重次も試していた!?

鉄火起請は、焼けた鉄片や鉄斧を手のひらに載せ、神棚まで運ぶ裁判です。

手のひらに起請文や牛王宝印(ごおうほういん・熊野の護符)を載せた上で、焼けた鉄を置くこともあったようです。

有名な例が『信長公記』でしょうか。

あの織田信長さんが自ら鉄火起請を行った話も出てくるのです。

織田信長/wikipediaより引用

盗みを働いた池田恒興の部下が、鉄火起請に失敗したにもかかわらずうやむやにしようとしたところに信長登場、ババーン!

「俺が鉄火起請に成功したらそいつ成敗な?」で信長見事に大成功し、恒興の部下を成敗したったというお話です。

また、家康の配下で「鬼の左作」とあだ名された『本多重次』にも鉄火起請の逸話があります。

享禄2年(1529年)、本多重正の子として生まれ重次は、三河三奉行の1人として行政に力を発揮しただけでなく武将としても勇猛果敢でした。

やることもいちいち大胆。

天正14年(1586年)の家康上洛の際には人質として差し出された大政所豊臣秀吉の母)の世話役を任され、寝所の周りに薪を積んで家康になにかあれば焼き殺すポーズで秀吉を牽制したほどです。

家康にもズバズバ物を言っていたようですが、そのぶん信頼も厚く、家康が正室築山殿のお女中に手をつけて身籠もらせたとき、その女中を匿ったのが重次だった、なんて逸話があります。

結城秀康が無事に生まれたのは重次のおかげだったんですね。

怖いイメージのある重次ですが実直な人柄で、家族思いの一面もあり、長篠陣中から妻に宛てた手紙は

『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』

と、こんな調子で日本一短い手紙として有名です。

本多重次/wikipediaより引用

さてこの鬼左作の鉄火起請ですが、織田と徳川の家臣の間でもめ事がおこり、信長の提案で鉄火起請による決着をつけることとなった話に登場します。

岡崎の伊賀八幡宮の社前で、家康自らに勝栗をもらった重次は奮起、火傷一つなく鉄火を成し遂げたのです。

作り話だろうなぁ……とは思ってしまいますが、重次ならマジでは……?とも思ったり。

他には、その昔、横浜市と川崎市の市境で揉めた時に、鉄火起請が行われ、川崎市側の早野が勝ったなんて記録もあるそうです。

日頃から横浜民のスカした態度にご立腹の川崎の皆さまは、この話で反撃したら良いかもしれません。

 


現代医学でも手足の火傷は重傷とみなされる

さてさて、ここで「鉄火起請をするとここまで火傷をする!」という話を書きたかったのですが、さすがに検証は難しい事例であります。

一般的な火傷の話から連想させてください。

まず、高温により身体が損傷をうけることを医学的には「火傷」あるいは「熱傷」と呼びます。

火傷は臨床的な予後の観点から皮膚への進達度によってⅠ度からⅢ度に分類。

Ⅰ度は表皮表層のみで赤くヒリヒリする程度で、Ⅱ度は水疱形成するものですが、深さで表皮表層のみのⅡsと表皮真相までのⅡdに分類されます。

火傷するとめちゃくちゃ痛いイメージがありますが、実はⅡdまでいきますと知覚麻痺が起こって、あまり痛くありません。

さらに、火傷が真皮以上に達すると、熱傷壊死でⅢ度となりケロイドが残ります。

Ⅱd以上の火傷の場合は治療に植皮を検討します。

重傷度は深さと範囲によりますが、手足に火傷がある場合は後遺症を考え重傷と見なします。

手に火傷を負わせる湯起請、鉄火起請はやっぱり過酷なんですね。

こうした症状に対する応急処置は、とにかく冷やすことです。

皆さま、ご家庭でのちょっとした火傷でも、最低20分くらいは冷やして下さい(湯起請だと冷やせないですけどね)。

これは私の経験ですが中学生の頃、理科実験の片付けをする際、ガスバーナーで熱されたスタンドに腕が当たったことがあります。

火を止めてから数分以上経過していたと思いますが、一瞬にもかかわらず水疱が破れる火傷となりました。

ヒリヒリと痛かったのでおそらくⅡsの火傷と思うのですが、ガチに焼けた鉄だともっと酷くなるのは明らかですね。

そんな状態になったらどうなるのか?

 


火傷した皮膚はたやすく感染してしまう

火傷した皮膚はバリアが破壊された状態なので感染しやすい状態となります。

現代でも火傷から感染、敗血症で命を落とすこともあるのです。

いまより衛生状態が悪く、ろくな治療がなかった戦国時代では尚更でしょう。

運良く一命を取り留めても瘢痕で強張った手では農作業もままなりません。

そのため鉄火起請の取手になった者には村が農作業の手伝いや生活を保障してやるといった配慮がなされることがありました。

幸いにして17世紀半ばに徳川政権の基盤が固まると、あやふやな裁判方法である鉄火起請は姿を消していきます。

代わりに「鉄火巻き」が編み出された……という冗談でお茶を濁そうと思ったのですが、案外、なんらかの由来があったりして!?

お粗末様でした。

鉄火起請


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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
清水克行『日本神判史 (中公新書)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
福島弘文『法医学』(→amazon
信州大学・姫野修廣『お湯の100℃は熱いが、油の100℃は熱くない?』(→PDF
KOMPAS慶應義塾大学病院(→link
一般社団法人日本熱傷学会(→link
火起請/wikipedia
本多重次/wikipedia
熱傷/wikipedia

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