伊達輝宗

伊達輝宗/wikipediaより引用

伊達家

息子に射殺された伊達輝宗(政宗の父)は凡将どころか外交名人なり

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最上家から義姫を娶る

父が去ったあと、米沢城に君臨することとなった伊達輝宗

そんな若き当主に、出羽の最上義守から縁談が持ちかけられました。

かつて最上家は、輝宗の祖父・伊達稙宗によって、滅びる寸前にまで追い詰められていました。

当主が急死したため、当時幼かった義守が傀儡のように据えられ、伊達家の顔色を伺うような状態に追い込まれていたのです。

しかしその後、伊達家が【天文の乱】で派手な身内争いをしている間に最上家は力を取り戻し、独立勢力としての勢いを戻しつつありました。

だからといって盤石とも言えない実情がある。

最上家としては、伊達家と再び争うような展開は避けたく、長身の美女で才知にも長けていた義姫を輝宗に嫁がせようとしたのです。

大河ドラマ『独眼竜政宗』第1回の冒頭は、この義姫が嫁いでくるところから始まります。

義姫が「暴れ猪を弓で仕留める」という、なかなか衝撃的なシーンでした。

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そして永禄10年(1567年)8月3日、米沢城で最初の子供が生まれます。

梵天丸と名付けられた男児――後の伊達政宗

仏教の天部にあやかる幼名が付けられたことから、輝宗の高い教養や信仰心、あるいは我が子への期待もうかがえますね。

名付けはというのは、単純なようで意外と重要です。

例えば、鎌倉時代を舞台とした『鎌倉殿の13人』では、坂東武者たちが「平六」「小四郎」と、実に単純な名前で呼び合っていました。

まだまだ武士の教養は途上であり、その後、徐々に凝った名前となってゆき、輝宗の時代には我が子に「梵天」とまでつけるほど教養が広まっていたと見ることができる。

輝宗は徳の高い僧・虎哉宗乙を招き、嫡男・梵天丸の学問の師としました。

大学などの教育機関が無い当時は、禅僧が最も高い漢籍教養を持っており、梵天丸もこの師に学び、長じてからは漢詩も堂々と詠みこなしています。

「馬上少年過ぐ」で始まる政宗の漢詩「酔余口号」(酔いに任せた思い)は、日本史上屈指の知名度と人気を誇りますが、その文才は、輝宗の教育方針あってこそ培われました。

 

巧みな外交で、奥羽の結束を固める

元亀元年(1570年)1月、そんな伊達輝宗のもとへ、舅の最上義守から助けを求める書状が届きました。

内容は、嫡男の最上義光と対立し、追い込まれているとのこと。

発端は、家督問題です。

義守が、義光を差し置き、中野義時という弟に継がせようとしたのが原因で揉めたとされますが、実際は義時など存在しなかったのでは?とも指摘されます。

「中野義時」とは、義守本人をさすという見方があり、要は自分が権力を握っていたかったという話ですね。

図式にすると、こうです。

【兄】最上義光
vs
【弟】中野義時 ※実際は最上義守か?

最上家の親子喧嘩に対し、輝宗はどうしたか?

実はこの頃の伊達輝宗は非常に多忙であり、4月には、晴宗派の筆頭ブレーン・中野宗時と牧野宗仲に謀反の疑いありという報告がありました。

【元亀の変】と呼ばれ、異変を察知した輝宗は、相手が動く隙もないほど素早く行動に移し、反乱の芽を摘み取っています。

もしかしたらこの事件は、輝宗が晴宗以来の重臣を排除するためのものだったのかもしれません。

なぜならこれを機に、遠藤基信と鬼庭義直が輝宗の側近として引き立てられ、普段からそばで支えることとなったのです。

ほぼ同時進行で、5月から9月にかけて輝宗は、最上義守救援のため出羽に出馬していました。

しかし、対峙する最上義光陣営の力戦や、多忙な輝宗の事情もあってか、思うような戦果があがりません。妻の義姫が、夫に撤兵を促したともされます。

結果、最上家では義光が勝利し、義守の出家隠居が確定しました。

輝宗と義光の時代到来――この頃の伊達と最上は、義姫を挟んで、安定した関係が築れてゆきます。

フィクションでは、最上義光がやたらと何か企んでいますが、あくまで誇張表現。

義光は、伊達を背後に背負い、足元の勢力を打倒するのに注力しました。伊達方面に対する警戒が解けたことから実現したこととも言えます。

ここで注目しておきたいのが政宗の片腕として有名な片倉小十郎景綱です。

彼の姉・喜多は政宗の乳母とされますが、乳を与えるのではなく教育係でした。

この片倉姉弟の親族に、飯田小十郎という最上家臣がいます。

つまり最上家と近い人物であり、片倉姉弟の重用には輝宗の意図が当然反映されているでしょうから、フィクションで誇張されるほど険悪でないとみなしたほうが妥当です。

先程触れたように、最上家9代の義定は、伊達稙宗に長谷堂城まで落とされ、滅亡寸前にまで追い込まれました。

それでも最上が伊達に対する警戒感を弱めているとすれば、輝宗と義光の間に信頼関係があったとみなしたほうが自然でしょう。

輝宗は【元亀の変】で力をつけた家臣を素早く処断し、中央集権化を図ると、優れた外交手段で近隣と和を結び、さらには奥羽を超えてまで外交手腕を発揮したのです。

この頃は近畿方面への目配りも重要となっていました。

そのため輝宗側近となった遠藤基信が、蹴鞠や連歌を話題とした書状のやりとりもしています。

戦乱期からの脱却が少しずつ進むにつれ、ますます重視されるようになった外交面で、輝宗は見事に対応していました。

伊達家当主の中では、あまり目立たない存在とされがちですが、決して凡庸でないどころか、将や大名としての資質を備えた人物像が浮かび上がってくるでしょう。

 

信長へ名鷹を贈る

伊達輝宗は非常に気配りのできる人物とも言えます。

奥羽からの贈答品で喜ばれる定番のものに「馬」と「鷹」があります。

いずれも名産地として全国的にも知られていて、天正3年(1575年)7月には、織田信長へ鷹と届けています。

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伊達との関係構築は、信長にとっても上杉の牽制に使えて旨味のあるものでした。

輝宗の先見性については、天正5年(1577年)の嫡子元服でも見られます。

伊達氏中興の祖である9代にならい、その名を「政宗」としたのです。すでに力を失い今にも滅びそうな将軍・足利義昭の偏諱を避けたのですね。

さらには政宗の正室選びにおいても外交への配慮がありました。

騎兵を巧みにつかいなかなか勝つことのできない相馬氏と対立を解消するため、田村氏から愛姫(田村清顕の娘)を正室に迎えたのです。

結果、相馬氏とも和睦に漕ぎ着けるなど、堅実に外交実績を積み上げてゆきました。

かくして輝宗は、奥羽の広い範囲において信頼を得てゆきます。

すると近畿をも見据えて、もっと雄大な構想を練り始めます。

上方から敵が攻め寄せてきたら、奥羽は一致団結して迎え討つべし――。

その一方で、意外にすら思えるのが輝宗の婚姻関係です。

伊達氏といえば多くの子をもうけ、婚姻関係を結ぶ外交が得意ですが、輝宗の正式な妻とされるのは義姫一人しかいない。

しかも彼女は多産の体質ではなく、二人には子が少ない。

輝宗は、信頼と知略でカバーしよう!とでも考えていたのかもしれませんが、さすがに手駒不足であり、今までのような外交は続けられなくなってしまう。

次世代の伊達政宗にとって使える手札は「弟・小次郎」だけということになってしまいます。

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