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【伊達稙宗】
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娘婿の蘆名に裏切られ
当初は稙宗方が有利でした。
が、稙宗の娘婿(の一人)・蘆名盛氏が晴宗方に寝返ってからにわかに形勢が逆転します。
最終的には、天文十七年(1548年)、十三代将軍・足利義輝が仲裁し、稙宗が晴宗に降伏して家督を譲ることで収まることとなりました。
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しかし、この戦のせいでこれまで支配下に置いてきた大名が次々に独立してしまい、伊達家の勢力は一気に落ちることになります。
身も蓋もない言い方をすると「せっかく自分で味方につけた家を、ささいなワガママで全部手放してしまった」ということになってしまったのです。
ちなみに、天文の乱・発端の一つだった、実元の上杉家への養子入りはご破算。
跡継ぎ不在のため越後上杉家は断絶してしまい、長尾景虎(上杉謙信・山内上杉家)が越後守護の代行を務めました。
つまり、稙宗の「100人部下つけちゃう♪」発言がなく、実元が無事に養子入りしていれば、謙信はその後、越後を支配するに至らず、実元のもとで伊達家の傘下になっていた可能性もあるんですね。
まぁ謙信の性格上、家中からの支持があれば、実元に逆らって当主になった可能性もありますが……これ以上の「IF」は止めておきましょう。
成実も誕生で伊達家的にはOK?
天文の乱以降、奥州ではグダグダの戦が多発します。
どういうことか。簡単に図式化しますと……。
① A家とB家がトラブる
↓
② 戦が始まる
↓
③「親戚だからこの辺で手打ちにしよう」or「雪の時期だからこの辺で」という話になる
↓
④ 一応戦をやめる
↓
⑤ しばらく経って最初に戻る or 別の家と似たような戦を始める
↓
⑥エンドレス\(^o^)/
こんな感じです。しかもこれが大名同士だけでなく、親子間でも起きます。
関東も有力者が出なかったため豊臣秀吉の統一まで戦乱が長引きましたが、東北の場合は半分以上、稙宗の失策でgdgdになったようなものかもしれません。
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稙宗の曾孫である政宗が、小手森城(現・福島県二本松市)で撫で斬りを行ったのは、こうした流れを断ち切るためだったという見方もあります。
メリットがあったとすれば、実元がその後(たぶん)異心なく、兄・晴宗に仕えたことでしょうか。
実元は晴宗の娘(実元からみて姪っ子)を正室に迎え(させられ)、息子・成実をもうけています。政宗の家臣として名高く、現代でも人気の高い伊達成実ですね。
成実は政宗のイトコとしてよく支え、『成実記』という政宗の説話集を書いています。
一時期、出奔したことがありますが、その辺もまた後日ということで。
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稙宗本人はその後、永禄八年(1565年・政宗が生まれる二年前)に亡くなりました。
もし顔を合わせる機会があれば、政宗も「ひいじーちゃん勘弁してよ」くらいは言いたかったでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
遠藤ゆり子『伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)』(→amazon)
伊達稙宗/wikipedia
文化遺産オンライン(→link)