応仁の乱が勃発し、京都が火の海に包まれた応仁元年(1467年)。
その後、信長が足利義昭を奉じて上洛する永禄11年(1568年)までの約100年間、いったい中央では何があったのか?
1467年(応仁の乱)
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約100年間、何があったん?
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1568年(信長の上洛)
将軍はフラフラしており確固たる政権もないため、ひたすらカオスだったかのような印象もありますが、そうとも言い切れません。
こんな時代でも将軍職や管領職を巡って畿内周辺の戦国大名たちは争いを続け、結果的に抜け出た存在がありました。
それが細川政権であり、その後の三好政権です。
1467年(応仁の乱)
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細川政権
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三好政権
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1568年(信長の上洛)
今回注目したいのは、そんな細川政権の中心にいた細川晴元。
いかにして頂点へ上り詰め、後に、配下の三好長慶に取って代わられるまで、いかにして堕ちていったのか。
永禄6年(1563年)3月1日が命日となる細川晴元と、【細川政権→三好政権】の移り変わりを振り返ってみたいと思います。
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細川京兆家の跡取りだった細川晴元
細川晴元は永正11年(1514年)、細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)に生まれました。
この家は、室町幕府の中でも最高級権力の「管領」職を歴任してきた一家であり、晴元の父は細川澄元(ほそかわすみもと)。
祖父は、将軍をしのぐほどの力をもった細川政元です
【細川家当主の流れ】
細川政元
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細川澄元(政元の養子)
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細川晴元(澄元の実子)
室町幕府で並ぶものはないほどの地位を築いていた細川京兆家――その言葉をいきなり引っくり返すようで申し訳ないですが、本来、管領とは将軍の補佐役であり、その立場にあった政元が独裁的な力を有していたことがそもそもオカシイのです。
簡単に、当時(室町後期~戦国前期)の情勢を説明させていただきますと……。
政元は時の将軍・足利義材(あしかがよしき・足利義稙)を引きずり下ろし、自身の息がかかった足利義澄を将軍としました。
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ただでさえ弱まっていた幕府の権力は、無残なまでに低下。政元が強行した独裁政治は、至るところで対立の炎を巻き起こします。
まず政元は、将軍職を引きずり下ろした義材を取り逃がしてしまったため、この元将軍を支持する守護らとの戦いを余儀なくされました。
新しく将軍に迎えた義澄をはじめとする味方陣営とも度々トラブルになり、部下の間にも動揺が走ります。
さらに。
政元は男色に耽って子を作らず養子を迎えるのですが、その対応が非常にまずかった。
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澄之と澄元「二人の後継ぎ候補」が出現
当初、政元は、家臣らの勧めによって関白・九条政基の子である細川澄之を迎えます。
しかし、この決定に対し「公卿の子を後継ぎにするのは武家の恥!」と家臣らが不満を漏らしたため、今度は阿波守護・細川義春の子・細川澄元を二人目の養子にします。これが細川晴元の父ですね。
いずれにせよあまりに場当たり的な対応で、細川京兆家という権力者の家に
・細川澄之
・細川澄元
という二人の当主候補が出現してしまったのです。
武家の家督継承には、ただでさえお家騒動がつきもの。ましてや非常に不安定だった細川京兆家に「二人の後継ぎ候補」が出現してしまえば、争いが起こらないワケがありません。
案の定、澄元派と澄之派に分かれて後継ぎ争いが勃発。その余波を受けて政元は暗殺されてしまいました。
両者の争いは、阿波国から澄元に従って上洛してきた三好之長(みよしゆきなが)や京兆家・分家筋生まれの細川高国らの支援を受けた澄元の勝利に終わりますが、この三好之長こそがとにかく問題児だった。
之長は権力を手にしたのをいいことに暴走し、見かねた高国が周囲の守護らと呼応して挙兵。
旗色の悪さを悟った之長と澄元は京都を離れて再起のチャンスをうかがいながら、結局は澄元の実家である阿波へ逃れざるを得ませんでした。
こうして、かつての権力を取り戻すどころか、阿波に隠れ住むことを余儀なくされた時期に、細川晴元は生まれます。
之長が死んで父も死亡 絶望的な幼少期となる晴元
阿波で生まれた晴元を待っていたのは、目を覆いたくなるような惨状でした。
まず、永正14年(1517年)に三好之長が淡路を攻め、畿内復帰への足掛かりを築きます。彼はこの時期に細川家の高国政権が動揺していた点に目を付け、巻き返しを図ったのです。
そして永正17年(1520年)に高国を京都から追放――。
と、喜ぶのもつかの間、彼らの反撃に遭い、最終的には三好之長は自害を余儀なくされました。
しかも、不幸はそれだけではありません。この敗戦のショックからか、同年中に澄元も亡くなってしまうのです。
結果、わずか7歳だった細川晴元が家督を継承し、三好氏も之長の孫である三好元長が当主となりました。
元長は当時まだ20歳前後と若々しい人物であり、幼い晴元を養育するような立場にあったハズ。すぐに反撃の用意などはできません。
何より細川高国が、新たな将軍・足利義晴を据え、反発する勢力を一掃し、荒れ狂う畿内の中で安定した政権を築き、付け入るスキを与えなかったのです。
戦国史ではあまり注目されない人物ですが、なかなかのヤリ手だったと思えます。
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それでも、この戦乱期においては盤石とまではなりません。
大永6年(1526年)、細川高国が家臣の香西元盛を切り殺したことがキッカケとなり、波多野元清や柳本賢治といった離反者が出て、同政権に動揺が生じました。
当然ながら敵対勢力にとっては絶好のチャンス――細川晴元・三好元長に加えて、阿波で不遇の時を過ごしていた足利義維(よしつな/前将軍足利義澄の次男)が立ち上がり、離反勢力と手を組んだのです。
挙兵のときには、三好之長の弟である三好長尚(ながなお)やその子・三好長家や三好政長も加わりました。
「倍返しだ!」と言わんばかりの晴元逆転劇が幕を開けるのでした。
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