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【細川晴元】
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旧高国派や側近の分裂により安定政権ならず
晴元は、自身の側近として三好政長を重用しました。
政長の名は遠く九州まで知れ渡るほど評価される一方、三好長慶は立場の違いに不満を抱くようになります。
天文8年(1539年)には、長慶と政長が河内国の代官職をめぐって騒動を引き起こし、戦の勃発を予感させる緊迫した情勢となりました。
ここで出張ったのが将軍・足利義晴。自ら調停に乗り出します。

足利義晴/wikipediaより引用
たとえ将軍に来られても長慶としては全面的な承服をしかねるところですが、あまり強行して晴元政権が崩壊することを望んでいたわけではありません。
そのため、最終的には和睦が成立。
長慶は摂津の越水城主(こしみずじょう)として位置づけられ、彼はもはや元長とは異なり、阿波に帰国することなく摂津を中心に活動しました。
領地の掌握や家臣団編成にもそうした特徴が表れており、着実に力を伸ばしていきます。
一方、晴元政権はなかなか安定しません。
依然として細川高国を支持した反抗勢力が健在で、釣られて彼らと親戚関係にあった晴元の家臣らも分裂。
「高国派の棟梁・細川氏綱」と「側近の対立」という二つの不安要素を抱えてしまったのです。
晴元の側近であった木沢長政は「政長の成敗」を幕府に訴えるも聞き入れられず、晴元自身も政長の肩をもちました。
結果、長政は完全に孤立してしまい、天文11年(1542年)に敗死。
長政を討ったことで反乱のタネを一つ消した晴元ですが、もう片方の頭痛のタネであった細川氏綱の存在を上手に処理することができず、天文12年(1543年)に周辺の有力者を味方につけた細川氏綱の攻撃を受けてしまいます。
この時は晴元陣営の軍事力に歯が立たず撤退を余儀なくされましたが、氏綱の挙兵はやがて政権を崩壊へと導くことになるのです……。
氏綱との抗争自体は乗り切るが、ついに長慶が寝返る
天文14年(1545年)、氏綱方はふたたび攻勢に出ました。
ここは晴元方の大勝で幕を閉じますが、翌年の出兵に際しては長慶の軍勢が整わず、その隙を突く形で堺の地を包囲されるという危機的状況を迎えます。
長慶はなんとか堺を脱出しました。
その一方で三宅国村や池田信正といった武将らが細川氏綱方に寝返り、摂津の勢力は大半が氏綱を支持するという状況に変貌。
同年中には、氏綱方の細川国慶が京都を攻め落とし、晴元は丹波まで逃亡を余儀なくされてしまいます。
劣勢の晴元軍を支えたのは、阿波から渡海した長慶の実弟・三好実休(じっきゅう)の大軍でした。
しかし、晴元の味方であったはずの六角定頼や足利義晴らでさえ氏綱の調略によって敵方に属するそぶりを見せており、危機的状況を脱するには至りません。
天文16年(1547年)にはようやく長慶の軍勢も整い、一転して反撃に出ました。
三好方は猛然と氏綱陣営を襲い、足利義晴およびその息子・足利義輝の籠る勝軍地蔵山城も落城の危機に瀕します。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
この情勢を受けて六角定頼はふたたび晴元と同盟を結び、池田信正も降伏を余儀なくされるなど、晴元の勝利が決定的になりました。
かくして義晴・義輝親子は、城を燃やすと近江へ落ち延び、逃亡生活に入ります。
晴元勝利の立役者は、言うまでもなく長慶を中心とする三好一族でした。
長慶にしてみれば「もはや、父の仇である晴元に従わずとも十分な力を有しているのではないか」と思ったのかもしれません。
また、同じ三好氏であっても政長を重用する晴元に、これ以上従う理由もありません。
そして天文17年(1548年)、ついに長慶は、政長らを重用する晴元に反旗を翻しました。
晴元政権は崩壊し、再興を果たすことはできなかった
長慶の反発に対し、晴元は徹底抗戦の構えを見せます。
ところが、長慶が反旗を翻した大義名分「池田家を横暴から守る!」という姿勢に共感したのか。
これまで氏綱方ではなかった武将たちまでもが長慶と共に寝返るという有様。
加えて、軍事力という点でも長慶とその兄弟衆は強大でした。
天文18年(1549年)に勃発した【江口の戦い】によって政長および晴元の側近らが多数討ち死にし、晴元政権は事実上の崩壊へ追い込まれます。
晴元が義晴・義輝親子らと近江に逃れると、一方の長慶は氏綱を奉じて上洛して周辺勢力を完全に支配下へと収め、ここに三好長慶の時代が到来するのです。
晴元は将軍親子とともに再興の機会をうかがいました。
しかし、すでに権威の失墜した晴元に勢いは戻ってきません。
天文21年(1552年)、六角氏の家督を継いだ六角義賢が将軍家と長慶の和睦をあっせんしたことにより、足利義輝は京都へ戻り、細川晴元は息子である聡明丸を長慶に差しだすことで講和へと至るのです。
そして「もはやこれまで」と出家し、若狭へと落ち延びていきました。
ところが、です。
出家によって「もう抵抗はしません!」という姿勢をとりながら、依然として再上洛を諦められない晴元。丹波に潜伏して隙を見ては政権の転覆を狙い、そのたびに長慶によって撃退されます。
永禄元年(1558年)には、足利義輝・六角義賢と手を組み、大規模な反抗を試みます。

六角義賢/wikipediaより引用
結果、【白川口の戦い】が起き、晴元の属する義輝軍は敗北。義輝と長慶らで和睦案がまとめられ、晴元は反撃の糸口を失ってしまうのです。さすがに完敗と言ってもよいでしょう。
最後まで反撃を諦めなかった晴元は、永禄4年(1561年)に「摂津富田の普門寺へ入る」「富田庄を与える」という条件で長慶と和睦を結びます。
そして、この地で余生を過ごし、永禄6年(1563年)に50歳で波乱の生涯を終えました。
評価の分かれる晴元という人物
なんとも波乱に満ち満ちた晴元の生涯。
没落の末に阿波で生まれ、苦戦しながらも自身の時代を築き、そして長慶に政権を奪われる――成功も失敗も多々あり、同時代の人々にとっても、その評価は分かれます。
例えば、越前朝倉氏の有力者・朝倉宗滴は、晴元を「国持の不器用、人使ひ下手の手本」と酷評していたと伝わります。
本当に宗滴がこう思っていたかは分かりませんが、確かに「人使ひ下手」な側面がないとはいえません。
特に、三好元長・長慶親子の処遇については、我々からすると随分「ヒドイなあ」と感じます。
過程はともかく、晴元が没落したことは事実であり、低評価を下されたとしても仕方のない側面があることは否定できません。
しかし、彼の父である細川澄元が三好之長を重用するあまり身を滅ぼしているように、衝突と同盟を繰り返す戦国時代において、付かず離れず距離のバランスをとることがいかに難しいことか。
その観点から考えれば、仏教徒や畿内の勢力とたくみに同盟・離反しながら第一線で権力を持ち続けた晴元の手腕は、むしろ「人使ひ上手」と評することもできるのではないでしょうか。
彼の息子である細川昭元は「京兆家の嫡流」として織田信長に保護され、その子孫は代々陸奥国三春藩で要職を務めたと伝わります。
「血を残す」ことが至上命題であった武家の習わしを考えれば、晴元も単なる敗者ではありませんでした。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
今谷明『戦国三好一族(新人物往来社)』(→amazon)
天野忠幸『三好長慶(ミネルヴァ書房)』(→amazon)
今谷明/天野忠幸『三好長慶:室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者(宮帯出版社)』(→amazon)