「この人に関わったらマジやばい!」
そんなコンセプトで過去の歴史人に注目する日本史ワル査定ですが、なぜかというか、やはりというか、登場人物は室町時代に集中しており、今回は細川政元さんがターゲットです。
では早速、見てみましょう!
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京都の大乱は収束させたが……
細川政元は文正元年(1466年)生まれ。
単なる守護大名ではなく、幕府の管領でもありました。
それも将軍をすげ替えるほどの権力を持っていたことから「半将軍」と呼ばれており、そこまで力を持てると言うことはさぞかし悪人……というか変人の部類に属するかもしれません。
政元の父は、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元です(母は山名煕貴の娘)。
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つまり生まれた翌年に応仁の乱が勃発しているんですね。
その父が亡くなるのが文明5年(1473年)。
わずか8歳で家督を継ぎ、親戚の補佐を受けて山名側との和睦が進みます。
東軍・西軍の血を引いていた細川政元が鎹(かすがい)となって、この年に【応仁の乱】が終了。
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なんやかんやで足利義材(または義稙)が10代将軍になりますと、この結果に不満を抱いた政元は幕府と距離を置き始めます。
そしてクーデタ~!
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足利将軍 流浪の始まり
クーデターとは延暦寺の焼き討ちではありません。
・10代義材を廃止し、清晃を第11代将軍として擁立した
【明応の政変】であり、実は室町幕府で、将軍が幕臣に追放されたのはこれが初のことです。
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日野富子の支持もあってのことですが、この一件で将軍の権威は地に落ちました。
『麒麟がくる』でも登場していた13代将軍・足利義輝や、その父・足利義晴(12代将軍)が京都を追われて転々とさせられたのもイキナリの出来事ではなく、こうした流れがあったんですね。
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一方、政元はこの政変で大きな権力を手に入れ、宗教も容赦なくブッコワス!ことにしたのです。
それが明応8年(1499年)。
当時、義材と手を結んでいた
・比叡山延暦寺を焼き討ち
出ましたね。
悪人キーワードの定番「寺を焼き討ち」です。
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