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【細川晴元】
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高国を追い落とし「堺幕府」の誕生
高国勢力をけん制しつつ堺へ上った三好長尚(ながなお)らは、現在の京都市右京区にある川勝寺で高国を撃破。一報を受けた三好元長も、足利義維と細川晴元を連れて堺へ向かいます。
義維を事実上の将軍とした
【堺幕府】
の誕生です。
一方の高国陣営は、近江へと逃れたものの依然として一定の勢力は維持しており、堺幕府と並んで両者が権力を二分する状況が成立しました。
小競り合いが続いたのちに和睦の交渉が進められると、今度は晴元方の中で和睦の是非をめぐって対立が生じます。
元長が和睦推進派であったのに対し、晴元や政長がこれに反対。最終的に交渉は決裂し「元長は失脚するのでは?」という噂が公家の間で流れました。
ちょっとややこしくなってきたので、図で整理しておきましょう。
【細川高国】
vs
【細川晴元・三好政長・三好元長】堺幕府
↓
◆堺幕府内での分裂
【細川晴元・三好政長】
vs
【三好元長】
かつて「蜜月の関係」といっても過言ではなかった親世代の三好之長と細川澄元。彼らと比べて、三好元長と細川晴元の関係には、そこまでの一体感が見られません。
晴元は父と異なり柳本賢治を重用したため、権力争いに敗れた三好元長は享禄2年(1529年)に阿波へと帰国してしまいます。
かといって、賢治の時代が到来したわけでもありません。
翌年、伊勢氏との和睦交渉に失敗すると、面目を失って出家を強いられたのち、修験者に殺害されたと伝わります。ややこしいので二行でまとめますと……。
①細川晴元陣営は、一応、実力で畿内を支配していた
②しかし、内情は割とガタついていた
こんなところですから、敗れた細川高国も黙ってはいません。高国は、尼子氏や六角氏と組んで再上洛を目指します。
この知らせを耳に入れた晴元は、すかさず、権力闘争に敗れて阿波にいた元長を呼び戻しました。
元長もこれに従い、享禄4年(1531年)に堺入り。
高国を相手に見事な戦を演じ、彼を自害へ追い込む【大物崩れ(だいもつくずれ)】をやってのけるのです。
晴元が父の代から煮え湯を飲まされていた高国――それを見事に打倒した元長。
二人の間にあった過去の諍いはすべて水に流され、晴元の右腕として元長が支配体制を補佐する……と、ドラマのようにならないのが戦国時代です。
畿内にはまだまだ魔物が潜んでおりました。
石山本願寺と結び、功臣・元長を自害へ追い込む…
大物崩れから数か月後のこと。細川晴元は、新たな争いを引き起こしていました。
それまで自身を補佐していた阿波細川氏の細川持隆と対立したのです。
原因は、持隆が支援する三好元長と、晴元の配下である三好政長・木沢長政らによる権力争いでした。
晴元は享禄5年(1532年)、元長の家臣らが柳本神二郎(賢治の息子)を殺害した事件をキッカケに元長の討伐を計画します。
一時は持隆のとりなしによって事なきを得るのですが、結局、晴元の気はおさまらず、再び元長打倒の準備を進めました。
一方の持隆はこれに失望し、阿波へ帰国。
仲介者を失った両者の対立は火を見るよりも明らかとなります。
さらには同年、元長と同じく晴元と対立していた畠山義宣が、晴元への接近を図っている家臣・木沢長政へ攻撃を始めました。
元長も援軍として三好家長を派遣し、晴元との対決を表明。
戦は、元長に優位な情勢で進み、ついに晴元は、長政の救援を目論んで大坂本願寺(石山本願寺)の宗主・本願寺証如へ出兵の要請を出します。
後世では、織田信長と真っ向から敵対し、約10年にわたって互角以上の戦いをした本願寺勢力(一向一揆)。
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詳細は後述しますが、彼らは“諸刃の剣”とも言うべき集団であり、助力を請うには危険な存在でした。
結果、三好家長は討たれ、畠山義宣も自害に追い込まれました。一揆勢が優勢とみるや周辺勢力も元長を見限り、彼のいた堺は包囲されます。
さすがに敗北を悟った元長。
彼は妻とその子・千熊丸を阿波へと逃がし、法華宗の顕本寺に籠って最期の一戦を遂げました。
こうして無念のうちに討たれた元長ですが、彼の遺児・千熊丸は後に天下を制する重要人物に成長します。
大河ドラマ『麒麟がくる』の序盤で活躍した「三好長慶」です。
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一揆衆に手を焼く晴元の前に、幼き日の長慶が現れる
本願寺の力を借りて形勢を逆転した晴元ですが、やはりそれは禁断の武器でした。
彼ら一揆勢は奈良や堺でも蜂起し、もはや証如でさえも制御不能の状態に陥るのです。
事ここに至り晴元は一揆衆を「敵」として認定。対立していた六角氏や延暦寺とも結び、山科本願寺を疎んじていた法華宗の信徒までもを味方に引き入れます。
結果、京都で強大な勢力を誇っていた山科本願寺を焼失に追い込むのですが、一揆衆の勢いはとどまるところを知りません。
天文2年(1533年)には晴元も身の危険から淡路島に逃亡するほど追い込まれ、【伊丹城の戦い】で一向一揆を破って戦況を五分に戻すなど、一進一退が繰り返されました。
しかも晴元には、一揆衆以外にも懸念すべき敵が存在しました。
かつて大物崩れで自害へ追い込んだ高国の弟・細川晴国が反晴元派として台頭しつつあり、一揆衆に手を焼いている場合ではなくなったのです。
『どうしたものか……』
そう頭を悩ませていた晴元に対し、ある家臣が一揆衆との和睦をまとめました。
家臣とは、対立の末に自害へ追い込んだ三好元長の遺児・三好長慶。長慶は、天文2年(1533年)中に晴元の家臣へ復帰すると、弱冠12歳ながら首尾よく交渉を進めたというのです。
さすがに12歳で交渉とは……。
むろん、長慶の代理で家臣が動いていた可能性は大いにありますが、当時の12歳は今よりもずっと「大人」として扱われており、初陣や婚姻を済ませていても不思議はありません。
したがって、これは長慶の功績と考えてもよいのではないかと思います。
本願寺との講和が成ったのちは細川晴国も滅び、ここに晴元の敵対勢力は姿を消しました。晴元は上洛し、将軍・足利義晴を奉じて「晴元政権」ともいうべき新たな政治をスタートさせたのです。
天文6年(1537年)には六角定頼の娘を妻とすることで六角氏との関係強化を図り、かねてから友好的であった本願寺などとも結んで体制の安定化を図ります。
これにて晴元政権、盤石の体制へ……と思いきや……。
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