井伊家

井伊直虎46年の生涯をスッキリ解説!おんな城主になった理由とは?

更新日:

【人物概略】井伊直虎とは?

井伊直虎は、戦国時代ど真ん中の1535年頃、遠江国の井伊谷(現在の静岡県浜松市)で生まれました。

父は、井伊家22代宗主の井伊直盛
地元の国衆(小領主)であり、母は、新野左馬助の妹でした。

新野家は今川家一族の出身で、桶狭間の戦い織田信長に討たれたあの今川義元の親戚に連なります。

となると、
『井伊家と今川家は結びつきが強かったのか?』
そんな疑問が湧いてくると思いますが、意外とコトは単純です。

今川家の拠点(駿河国)は、直虎の地元・遠江のスグ隣でしたので、井伊一族は常に、その強い影響を受けて戦国の世を生き抜いていくワケです。

ときには味方、ときには敵。
そんな風に今川家をはじめ、武田家や徳川家など、名だたる大名たちと関わり合いながら、最終的に井伊家は直政が跡を継ぎ、徳川家康のもとで大出世を遂げるのです。

では井伊直虎は?
もちろん井伊家にとって彼女は欠かせません。

井伊直政が徳川家康に仕えることになったのも、彼女の存在があったからこそ。

言わば井伊家をあげて直政をバックアップし、その直政も井伊の赤鬼として期待に応え、江戸時代には彦根30万石の大名となるワケで、大河ドラマでもそこが終盤の見所となります。

そこで本稿ではドラマで想定される象徴的なシーンを取り上げつつ、直虎の生涯をまとめてみたいと思います。

以下本文へ。

 

井伊家は1000年超の歴史 最初の600年は浜松で

歴史上で「井伊」の名称と言えば、徳川四天王の一人・井伊直政や、その子孫であり江戸幕府の大老でもあった井伊直弼が有名だ。

ゆえに井伊家は「井伊直政から始まる」、「彦根に始まる」と考えられがちである。

が、同家には1000年を超える歴史があり、最初の600年間は浜名湖の北に位置する井伊谷(いいのや)の地で刻まれていた。

井伊直虎は、そのうち22代宗主・井伊直盛の娘であり、24代宗主・井伊直政の後見人という立ち位置である。

――あれ? 彼女は城主で、宗主じゃないの?
と思われたかもしれないが、直虎は「女性」であるから、宗主として系図には載せられず、それでいて実質的に井伊家存続の危機を救った人物である。

直政も直弼も、ひいては徳川家の栄光も彼女の存在なくして運命が変わっていた可能性は否定しきれない。

まずは次の家系図を見ていただきたい(井伊家の家系図には諸種あるが、今回は『寛政重修諸家譜』を基に制作)。

井伊家系図

井伊家では、嫡流の22代宗主直盛に嫡男がいなかった。
そこで井伊家がとった方法は、直盛の娘(後の直虎)と直親を結婚させて、御家を存続させるという方法であった。
しかし……。

 

今川に監視され続けた井伊家の過酷な命運

そもそも井伊氏の本拠地・井伊谷は、遠江国(静岡県西部)に位置し、駿河(静岡県中部)を本拠地としていた大名・今川氏の支配下にあった。

西の三河国は徳川領で、北は信濃国の武田領、南は浜名湖を通じて太平洋。
名だたる大名に囲まれ、そのポジションが非常に過酷であったことは想像できるであろう。

当時、国の「端」に位置する地侍たちは他国からのお誘いを最も受けやすく、かつ最も早く裏切る場所でもあるから、井伊家も常に今川氏の監視下に置かれ、常に翻弄されて生きてきた。

井伊家の男たちは次々に謀殺されたり、戦死したりして消えていったのだ。

戦国時代の井伊領イメージ(推定)

例えば直虎が生まれた1535年頃から、彼女が女地頭(おんな城主)となる1565年までの30年間で生き残った一族は、直虎自身と井伊直政、そして築山殿(徳川家康正室)を産んだ姫、血の繋がりのない住職・南渓瑞聞の4名ほどしかいない。

実際、1565年当時は、後に宗主となる直政はまだ5歳であったので、井伊直盛の娘・直虎が、男勝りの名前を掲げて女地頭(女城主)にならざるを得なかった――結論から申し上げると、それが彼女が「おんな城主となった理由」である。

ここであらためて断っておくと、井伊直虎については圧倒的に史料が少ない。
直虎の書状についてはわずか数点のみとされている。

城跡や神社、古戦場など、日頃から地元浜松で直虎ゆかりの史蹟を巡っている私にしてみれば、ドラマ化は激しく喜びを感じる反面、『どうやってストーリを描くのか?』不安でならない一面もある。

そこでこの先は周辺の史実を描くことで彼女の実像を浮かび上がらせるとともに、多少は誇張があっても映像で描かれるであろう逸話も織り交ぜて進めたい。

井伊直虎井伊谷城(城山城)6

井伊谷城(城山城)がある城山

 

「我々は無実である。必ず、お前(今川義元)を呪い殺す」

井伊家は平安末期から続く名家で、鎌倉時代には御家人「日本八介の一人・井伊介」としてその名は全国に鳴り響いていた。

直虎が生まれたのは、それから約300年後の戦国時代。
この頃の井伊家は、国衆として今川義元に従属しており、嫡男がいなかったため御家の存続に不安要素があったことは前述の通りである。

実際、天文11年(1542年)、今川氏の命で出陣した直宗(21代)が田原城攻めにおいて討死すると、井伊家の繁栄に影がさしはじめ、井伊直平(20代)はある決断を下した。

「このまま直盛(22代)に男児が生まれなければ、娘の直虎と、傍流の井伊直親(なおちか・ドラマでは三浦春馬さん)を結婚させて、直親に井伊家を継がせる」

これに反発したのが井伊家の家老・小野政直である。

小野家は、小野篁(たかむら・9世紀の天才的貴族)を祖とするという一族で、本貫地は小野篁の墓もある赤佐郷小野(静岡県浜松市浜北区尾野)。
政道は、今川氏の与力とも井伊家の庶子家ともいわれているが、いずれにせよ井伊家の家老であり同時に今川寄りの配下であって、跡取りについては次のように主張した。

「直盛の娘である直虎の婿にも、今川氏の縁者を迎えるのがよい」
あるいは
「自分の息子である小野但馬守政次を、直盛の娘の婿にすればよい」

小野氏は井伊家宗主の座を奪おうとしていた。
そのため上記のように今川と小野寄りの主張を展開し、そして今川義元に対しても「井伊直平の子の井伊直満・直義兄弟が、武田信玄に内通している」と讒言したのである。

直満・直義兄弟の両名は、弁明のために今川氏の本拠地・駿府(静岡県静岡市)の今川館へ出向き、結局、切腹させられた。
そのとき「我々は無実である。必ず、お前(今川義元)を呪い殺す」と言って腹を裂いたと伝わる。

井伊谷城(城山城)を別の角度から

井伊谷城(城山城)を別の角度から

 

許婚者の直親が信州・松源寺へ逃亡し、自らは出家す

井伊家に対する殺害命令は、直満の子である直親にも下された。

直親は、当時の直虎の許婚者であり、婚姻後は井伊家宗主の候補者でもあるが、上級権力者である今川氏に命を狙われれば逃げないワケにはいかない。
『井伊家遠州渋川村古跡事』によると、直親は「病死」と発表して渋川の東光寺に身を隠し、そこから信州市田郷(現在の長野県下伊那郡高森町)の松源寺への逃亡を果たす。

一方、許婚(直親)の死を聞いた直虎は、世をはかなむと同時に、小野氏との縁談を断って直親への愛を貫き、自ら断髪。龍潭寺の住職である南渓和尚に「出家したい」と申し出た。

実は直親が生きていることを知っていた直虎の両親は、彼女の出家に反対したが、結局、南渓和尚が井伊家宗主の通称「次郎」という俗名と「法師」という僧名を組み合わせた名前を付けて、直虎を出家させる。

「備中次郎と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は、女(をなご)にこそあれ井伊家惣領に生候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非、南渓和尚、御付被成候名なり」(『井伊家伝記』)

なお、この一件は流派こそ異なるが太原雪斎(今川家の軍師とされる僧侶)と同じ臨済宗妙心寺派の南渓和尚が考えた「策」であったことが後に分かる。

井伊家に大きな転機が訪れたのは、天文23年(1554)のこと。

この年、武田信玄・北条氏康・今川義元による甲相駿三国同盟が成立したことを契機に、翌弘治元年(1555)、井伊直親が信州から帰国した。

直親を保護していた松岡氏が武田氏に従属したことや、今川氏に讒言した小野和泉守が死んだことなどから、もう逃亡する理由がなくなったのだ。

このとき「次郎法師」を名乗っていた直虎が「出家のため(帰国した直親と)結婚できなかった」と著す書物は多いが、実のところ還俗すれば婚姻は成立できるため少々ニュアンスがおかしい(これが尼だと還俗できないが、あくまで「次郎法師」という僧であるから還俗可能。方便ではある。しかし、そこが重要でもある)。

2人が結ばれなかった要因は主に2つ考えられる。

『もう二度と帰国はできないであろう』と考えていた井伊直親が逃亡先で別の女性(塩沢氏の娘・ひよとは別で帰国後)と結婚して娘をもうけており、出家までして愛を貫いた直虎が直親に失望すると同時に、井伊家嫡流の娘が傍流の男の側室になることを恥じたのであろう。

また、適齢期をとうの昔に過ぎていたことも大きいはず。

とにもかくにも、帰国した井伊直親は、井伊直盛の養子となり、次の宗主の第一候補となった。
つまり直虎とは姉弟(兄妹とも)の関係になったということである。

そして迎えた1560年、戦国史に残る最大の逆転劇が起きた。

桶狭間の戦いだ。

 

桶狭間で直虎の父・直盛は殉死してしまう

直虎の父・直盛は優れた武将であった。

それは今川義元の近習に抜擢されたことでも明らかだが、こともあろうに直盛が先鋒の大将を務めた永禄3年(1560年)の合戦があの「桶狭間の戦い」であった。

讒言で殺された直満・直義兄弟の呪いが叶ったのか。皆さんご存知のように今川義元は織田信長に討たれる。
そして直盛も、他の近習と共に追い腹をめされたのである。
つまり殉死だ。

直盛の首は、介錯人の奥山孫市郎(奥山家は井伊家の庶子家)によって井伊谷に持ち帰られた。

父の生首を見た直虎は、さぞかし驚いたことだろう。引佐の伝承では「直虎は、直親と別れて出家したのではなく、父の生首を見て母と共に出家した」ということになっているほどだ。

ただしこの時期は井伊家にとって悪い事ばかりでもなかった。22代直盛が死んで23代宗主となった直親に待望の男子が生まれたのである。

名は虎松。後の徳川四天王・井伊直政である。

井伊家の人間の目は野性的であるがゆえに「虎の目の一族」と言われており、21代直宗(幼名:虎松)、22代直盛(幼名:虎松。虎丸とも)、直虎、24代直政(幼名:虎松)と「虎の系譜」が続いた。

しかし、またもや悲劇は繰り返される。

永禄5年(1562年)、家老の小野政次今川氏真(うじざね)に対し「井伊直親が徳川家康と内通している」と内部告発をしたのだ。

龍潭寺を別の角度から

龍潭寺

井伊谷の奥の井平は鹿狩りで有名である。

確かに井伊直親は「鹿狩りに行く」と言って城を出ては、徳川家康の家臣に会っていた。岡崎へ行ったこともあるという。

いずれにせよ目の前の疑いを晴らす弁明のため井伊直親は氏真のいる駿府へ出向こうとした。しかし、掛川城下で、今川家の宿老で遠江方面を担当する城主・朝比奈泰朝に討たれてしまうのだ。

更には直親の子である虎松(後の井伊直政)にも殺害命令が下される。

しかし、今川庶子家の新野左馬助(妹が直盛の妻となり、直虎の叔父にあたる)が「養子にする」と言って助命を嘆願。
これが認められ、虎松は母と共に井伊谷の新野親矩宅に住んだ。
このとき、井伊直親が誅殺されて領主不在となった井伊領は、庶子家の中野直由が一時的に管理したという。

さらに悲劇は続く。
直虎の曽祖父にして井伊家を取り仕切ってきたご意見番の直平が、永禄6年(1563)に急死したのだ。

今川氏真の命令で天野氏の杜山城攻めに向かう最中のことだった。

 

井伊家の男が5歳の直政以外にすべて消え……

直平はなぜ急死したのか。
天野氏と縁のある引馬城主・飯尾連龍(つらたつ)の妻・お田鶴の方が毒茶を飲ませたとか、敵の急襲とか、落馬などの諸説が伝わる。

そしてその飯尾連龍は、徳川家康と内通したのが翌永禄7年(1564年)に発覚し、今川氏真との合戦に発展。
氏真から攻撃命令を下された中野直由と新野親矩(にいの ちかのり)は討死してしまった。

井伊家所領の管理を任されたばかりの中野直由と、直政の助命を嘆願した新野親矩という、いわば味方の武将たちが亡き人となり、井伊家に存続の危機に陥った。

更に別の角度の井伊谷城(城山城)

更に別の角度の井伊谷城(城山城)

直虎が「おんな城主」となるのはまさにこのタイミング。
直虎の母・祐椿尼(ゆうちんに)と南渓和尚が話し合って、次郎法師を女地頭とし、井伊直政の後見人とすることが決定した。

次郎法師は還俗し、「井伊直虎」と名を変えて「女地頭」となったのである。
※当時の「地頭」は「領主」の意

次のページへ >



-井伊家
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.