今川義元像

今川家

今川義元はなぜ海道一の弓取りと呼ばれたか?42年の生涯をスッキリ解説

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桶狭間で信長に討たれた今川義元

その跡を継ぎ、同家を滅亡に導いてしまった今川氏真

「今川」と言えば、いずれも破滅のイメージばかりが先行する。

しかし、実際は将軍にもなれる家格の名門一族であり、今川義元は「海道一の弓取り(東海道で最も強い武将)」とも称されるほどの実力者であった。
武田信玄や北条氏康との間に対等の同盟を結んでいたことからも、その存在感をご理解できよう。

では、いったい今川義元はいかなる武将だったか?
桶狭間も含めた42年の生涯を振り返ってみたい。

 

今川義元の幼名は芳菊丸

義元は永正16年(1519年)、駿河・遠江両国の守護・今川氏親の五男として生まれた。※注1

幼名は芳菊丸ほうぎくまる
母は正室の寿桂尼じゅけいに(中御門宣胤の娘)で、彼女にとっては3人目の息子であった。

このときすでに今川の跡継ぎは兄・今川氏輝と決まっており、家督争いが起きないよう芳菊丸は出家させられ、臨済宗の善徳寺(「善得寺」とも・現在の富士市今泉8丁目)に預けられる。

そして7歳の頃に得度すると、以降は栴岳承芳せんがくしょうほうを名乗った。

以前は「梅岳承芳ばいがくしょうほう」としていたが、名前の由来が
【栴檀は双葉より芳し】
だとして、現在は「栴岳承芳」と考えられている

教育係を務めたのが僧侶の太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)
太原雪斎は義元と共に上洛も果たし、京都の建長寺や妙心寺で学識を深めることに注力した。

なお雪斎は、以前は九英承菊と名乗っており、父は庵原城主・庵原政盛で、母は興津横山城主・興津正信の娘だと伝わる。
今川譜代の重臣出身だった。

 

兄二人が同日に急死で家督を継ぐ

風雲急を告げたのは天文5年(1536年)3月17日のことだ。

この日、氏親の長男・今川氏輝と次男・今川彦五郎(共に寿桂尼の子)が、小田原城での歌会から帰ると、なんと同じ日に急死したのである。

死因は不明で疫病説が有力。
しかし、同時期に病気が流行っていたとする記録はなく、入水自殺説まで流れる有様だ。
※「今川系図」に「爲氏輝入水、今川怨霊也」という文言が残されている

なんせ氏輝は24歳ながら未婚で子供がおらず、急遽、今川家を継ぐ次の宗主を決めなければならない。

そこで次なる候補になったのが栴岳承芳である。

栴岳承芳は還俗して今川義元となり、同家を継ぎ、ときの征夷大将軍・足利義晴から一字を承る。

「晴」の字ではなく、畏れ多くも足利将軍家の通字である「義」であった。
後に海道一の弓取りと称される、今川11代宗主・義元の誕生である。

前途は必ずしも平穏ではなかった。

直後に重臣の福嶋くしま氏が家督相続に反対し、義元の兄・玄広恵探げんこうえたんを擁して内乱となったのである。

これを「花蔵の乱」といい、最終的には義元が勝って花倉城(葉梨城)は落ち、玄広恵探は瀬戸谷の普門寺で自害することになった。

花倉城の案内

花倉城の案内版

 

甲相駿三国同盟の成立

宗主に就いた義元は、太原雪斎をいわゆる軍師的なポジションに取り立て、外交方針の転換が図られた。

最大の変革は、北条氏よりも武田氏を重視したことである。

甲斐・武田と駿河・今川の間で「甲駿同盟」の強化を推し進め、義元は、武田信虎の娘(定恵院)と結婚。
武田信玄の姉を娶ったことで義兄弟の間柄となった。

しかし、これにより北条との間で「河東の乱」(富士川以東の地域で合戦)を引き起こしてしまい、しばらくの間、その戦いに注力することになる。

最終的に太原雪斎は、今川義元・武田晴信・北条氏康の間で「甲相駿三国同盟」(俗に言う「善徳寺の会盟」)を成立させることで、次なる改革へと取り組むことにした。

雪斎もう一つの改革とは、領地(駿河・遠江両国)西端を領する井伊氏を重視したことだ。

かねてから今川氏と揉めていた井伊家20代宗主・井伊直平に娘(名前は不明・ドラマでは佐名)を人質に出させ、息子・井伊直宗に代替わりさせることで井伊氏との融和を進め、更には今川庶子家(新野氏)の娘を次期22代宗主・井伊直盛に与えたのである。

これにより、井伊氏は今川氏の家臣となり、義元は隣国三河の攻略をすすめる。

そこに立ちはだかったのが尾張の織田信秀だったが、信秀が1551年に病没すると同年から今川の三河支配が急速に進み、1555年までにはほぼ完了させている。

これにて駿河・遠江・三河を支配域に治めることとなった義元。
同時期にこれだけのエリアを制することは、相当な力がなければできなかったことを確認しておきたい。

例えば織田信長は、1551年に父織田信秀が亡くなり家督を継いでから、尾張を統一する1565年までに約14年もの月日を要している。
美濃を平定するのが1567年であるから、約16年も経過していた。

武田信玄も信濃平定(北信地方除く)に10年以上の月日を費やしている。

彼らに先じて勢力を拡大させた今川義元が「海道一の弓取り」と称されるのも納得がいくだろう。

 

雪斎と母・寿桂尼

そんな義元の快進撃をサポートしたのは、太原雪斎と母の寿桂尼であった。

二人は男女の関係にあったとする俗説があるが、僧と尼ではありえない。

そればかりか寿桂尼の外交方針は北条重視であり、太原雪斎の武田重視とは大いに異なっていた。

最近の研究では「花蔵の乱」で寿桂尼が実の子の栴岳承芳(義元)ではなく、側室(福嶋氏の娘)の子・玄広恵探(今川良真)を支持していたことが判明しているほど。
これは、玄広恵探の外交方針が、従来通りの北条重視であったからと考えられる。

しかしその太原が、弘治元年(1555)閏10月10日に遷化せんげ(僧侶が死ぬこと)すると、同家の歯車が狂い始める……。

長慶寺の太原雪斎の墓(中央の五輪塔(今川泰範の墓)の右の無縫塔)

長慶寺の太原雪斎の墓(中央の五輪塔(今川泰範の墓)の右の無縫塔)

 

桶狭間

今川義元が、息子の氏真に家督を譲ったのは、太原雪斎の死から約3年後の永禄元年(1558)頃と考えられている。

今川氏に壊滅的な衝撃が走るのはさらにその2年後のことだ。

当時、駿河・遠江国は、南は太平洋に面してもとより敵はなく、北や東も「甲相駿三国同盟」の締結で脅威がなくなり、まさに後顧の憂い無い状態のまま、西(三河国)の鎮圧、及び、所領経営に集中していた。
その甲斐あって義元は永禄3年(1560)5月8日に三河守に任官、それから11日後の5月19日、更に西へと軍を進める。

これが結果的に同家にとっては由々しき事態となった。
三河と尾張の国境付近・桶狭間で、義元が織田信長に討たれたのだ。

ご存知、桶狭間の戦いである。

桶狭間の戦い 信長は奇襲していない!戦国初心者も超わかる信長公記36話

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織田方では、服部小平太(一忠)が義元に膝を斬られながらも一番槍をつけ、その助太刀に入った毛利新助(良勝)が首級を挙げたと伝わるその一方、今川方も酷い有様で、例えば井伊直虎の井伊家では、22代宗主の井伊直盛が殉死し、総勢16名の有力武将が討死した。

井伊衆の編成は300人とされるので、重臣クラスの武将1人につき50人の配下を率いるとすれば、本来、将は6人で足るハズ。
それが16人も亡くなったということは、次世代を担う中堅クラスの武将も討ち死にしてしまったことになるばかりか、このときの激戦では300人のほぼ全員が討死し、生き残った者も大怪我をしたという。

荷駄として参加した農民も傷つき、この敗戦で、馬や働き手が失われ、田畑は荒れていったとまでいうのだ。

この瀕死状態の井伊領を立て直したのが、女地頭・井伊直虎だった。
当時の「地頭」は「領主」を意味する。

今川義元仏式の墓碑(桶狭間古戦場伝承地)

今川義元仏式の墓碑(桶狭間古戦場伝承地)

 

信長公記にも記載あり

桶狭間の戦いの後、織田信長は、清須城下の須ヶ口に今川義元の首を晒した後、10人の僧に、他の武将首と一緒に駿府へ運ばせた。

また、首を晒した場に、義元の菩提を弔うため「義元塚」(今川塚とも)を築き、同じ経を1000人の僧が一部ずつ読む法会「千部会」も実施。
大きな卒塔婆そとば(仏塔をかたどった縦長の木片のこと)を建てたといわれている。

その後、正覚寺六世三誉上人が「今川塚供養碑」も建てた。
これは民家の敷地内にあったが、平成19年(2007)11月24日、正覚寺境内に移されている。

信長公記』より一節を引用しておこう。

【意訳】義元の首は他の武将たちの首と一緒に、10人の僧侶たちに駿河へ運ばせた。清須の南にある須賀口(熱田に向かう街道脇)に首塚を作り、さらには弔いのために千部経も行われた。大きな卒塔婆も建てた

【原文】十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸、同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。『信長公記』

明治9年(1876)5月建立の今川義元の墓(桶狭間古戦場伝承地)

明治9年(1876)5月建立の今川義元の墓(桶狭間古戦場伝承地)

今川義元には愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝承地や臨済寺(今川氏の菩提寺・静岡県静岡市葵区大岩町)の墓のほかに複数の首塚がある。

いずれにせよ海道一の弓取りと呼ばれた義元の死はあまりに大きく、その後、跡を継いだ今川氏真も奮闘するものの、寿桂尼が亡くなるとにわかに今川の結束も緩み、武田信玄や徳川家康に攻められ戦国大名としての今川家は滅亡した。

 

今川義元の首塚・胴塚

①愛知県清須市須ヶ口の「今川塚供養碑」(首塚)

②愛知県東海市高横須賀町戌亥屋敷の「今川義基墳」(墓)
今川家臣たちがこの地まで逃れ、義元の遺体を永昌寺(廃寺)に、「義元」を「義基」に変えて、こっそりと葬ったという。
彼らは墓守として、この地に住み着いた。
その子孫は現在、「北川」や「早川」などと名乗っているという。

③愛知県西尾市駒場町榎木島の首塚
今川義元の首は、鳴海城の開城と交換で鳴海城主・岡部元信に返還された。元信は、駿府まで首を運ぼうとしたが、途中、刈谷城の水野氏を忍者を使って攻め落城させたこともあって腐敗が激しくなり、駿府に持ち帰るのを断念して東向寺に埋めたという。

④愛知県豊川市牛久保町岸組の「義元の胴塚」
首の無い義元の遺体を今川家臣が背負って駿府に持ち帰ろうとしたが腐敗が激しく、大聖寺に葬って手水鉢を墓石としたという。今川氏真は、父・義元の三回忌をこの大聖寺で執り行っている。

今川義元の首塚(東向寺)

今川義元の首塚(東向寺)

今川義元の胴塚(大聖寺)

今川義元の胴塚(大聖寺)

 

名門・今川氏とは?

今川氏は、もともと足利将軍家の傍流だった。

「御所(将軍家のこと)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
そんな風にも言われる、将軍継承権を持った名門であり、もしも足利氏が倒れれば今川氏が同職に就く資格を有していたほどだ(ただし、可能性は非常に低かったが)。

そんな今川氏の始まりは、足利義氏の孫である吉良国氏である。
国氏が三河国の幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)を与えられてから「今川」を称するようになり、更にその孫の今川範国が南北朝時代足利尊氏の北朝方を盛り立て、駿河・遠江両国の守護となった。

今川範国の墓(福王寺)

今川範国の墓(福王寺)

今川範国は、別名を「足利上総介五郎入道」という。
受領名の「上総介」は、もとは吉良氏の世襲受領名でもあり、以降「五郎」は今川宗家の通称となった。

彼ら今川宗家の者たちは、井伊氏ら遠江国の武士を率いて九州の南朝勢力と戦い、一方で九州探題となった遠江守護の貞世の家系は「遠江今川家」を称することになった。

ただし、今川7代範忠が足利将軍義教から「天下一苗字」を賜ると、宗家しか「今川」を名乗れなくなり、貞世たちの家系は「堀越」と改名する。

今川家系図

今川と将軍家の関わりがことのほか深いのはご理解いただけたであろう。
その今川家を確固たる地位まで押し上げたのが義元だった。

 

敵討ちで領民に暗殺された小平太

徳川家康関連の三都市(岡崎市・浜松市・静岡市)のうち、浜松市だけが異なることがある。

浜松市だけが「家康公」とは呼ばずに、「家康」と呼び捨てることである。
これは、徳川の遠江国侵攻時に、刑部城に籠もる浪人や、堀川城に籠もる農民を大量虐殺したことに起因する(我らの殿様は徳政令を出してくれた心優しい今川氏真であり、徳川家康は冷酷で残忍な侵略者である――という理屈)。

そんな地に、領主として赴任してきたのが、今川義元に一番槍をつけたとされる服部小平太だった。

しかし小平太は、ある日、領内を視察中に刑部の「長坂」(姫街道の三方ヶ原から気賀へ下る長い坂)で何者かによって暗殺されてしまう。
言わずもがな義元の敵討ちだと考えられている。

そもそも今川義元を討ったのは服部小平太ではなく毛利新助であって、しかも、領主として赴任したのは「服部小平太一忠」ではなく、「服部中小平太保次」であって、似た名の別人であった。

服部小平太の最期の地

服部小平太の最期の地

服部小平太の墓

服部小平太の墓

※注1『今川家譜略記』では永正9年生まれ、『今川家系図』には永正13年生まれとあるが、静岡市は永正16年生まれだとして、本年2019年に「今川義元公生誕500年祭」を開催する

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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