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【今川氏真】
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信玄の駿河侵攻に対して大慌て
桶狭間の戦いで織田信長に敗れた後、徳川家康は駿府に戻らず、岡崎に留まった。
そして三河国を統一。
今川傘下の生活から解き放たれて、俄然、家康は勢いづく。
三河国の東と接していた今川領の遠江国でも、井伊谷城主の井伊直親や引馬城主の飯尾連龍がなびき、また、北遠の天野氏が武田信玄に付き「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」状態となった。
そしてこの対処として、今川氏真はあろうことか直親や連龍を誅殺したのである。
父の敵である信長を討とうと兵を挙げるならまだしも、その最中に配下の者たちに手をかける所業は見せしめとしての効果を期待したものであったのかもしれないが、決して上策とはいえない。
そうこうするうちに家中を支えてきた祖母の寿桂尼(義元の母)が永禄11年(1568年)3月14日に死去。
同年12月、満を持して武田信玄が駿河国へ、徳川家康が遠江国へ同時に侵攻した。
今川氏は、平時は今川館(現・駿府城公園)で政務を行い、緊急時には居城の「賤機山城(しずはたやまじょう)」に籠もる。
武田信玄の駿河国侵攻が伝えられれば、当然、賤機山城に移って戦う場面であるが、駿府の今川軍は2000~2500人しかおらず、単独で武田軍と戦うことができなかったため、氏真は妻の実父である北条氏康の援軍を待った。
しかし、武田軍の進軍速度は想像以上に速い。
援軍を待っている暇はなく、もはや逃げる他に道はナシ。
本来であれば、北条家のある東の相模国小田原へ向かうのが得策であるが、肝心の武田軍が東から攻めてきており、東へは海路で逃げるか、陸路ならば西に進むしか無い。
そして氏真は西を選択した。
12月13日、建穂寺に入る。
『武徳編年集成』に「氏真、安部川ヲ過ル迄、従者二千余。土岐ノ山家ニ至ル時ハ、纔百騎ニ足ラズ」とあるように100人程度の人数しかおらず、掛川城(城主・朝比奈泰朝)で落ち会う約束をして別れた。
北条氏康の娘である妻の早川殿は乗り物を用意できず、さらに、代々の判形(はんぎょう)を葉梨郷大沢(現・藤枝市上大沢)で紛失するほど慌ただしい逃避行だったという。
武田信玄は苦もなく駿府に入ると、賤機山城(籠鼻砦)に陣取り、今川館も美しい町並みも焼き払った。
朝比奈泰朝の忠義だけが唯一の救い
駿河を追われた今川氏真が向かった掛川城の城主・朝比奈泰朝は、今川きっての忠臣であった。
氏真が出した井伊直親殺害命令が、新野左馬助の必死の助命嘆願によ
重臣の大半は氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は最後まで忠義を尽くした。
今川氏真が駿府から追い出され、掛川城に逃げ込んだことを最も驚いたのは徳川家康であろう。
家康は、氏真が駿河・遠江両国をあきらめて相模国に逃げるか、駿府で武田信玄に討たれると思っていたはずである。
その氏真が遠江国へ逃げ込み、自らが手をかけなければならない状況を喜びはしなかったハズだ。
まだ竹千代と呼ばれていた幼き頃、人質として駿府の松平屋敷で暮らしており、氏真とは旧知の間柄。
その氏真を討たなければならない。
しかし当初は「すぐに落ちる」と思われた掛川城は、氏真が選んだ城だけあって(朝比奈泰朝が守るだけあって)、なかなか陥落しなかった。
掛川城(天守丸)には「霧吹き井戸」と呼ばれる水源がある。
その深さ、なんと45m――。
日本で3番目に深い城郭井戸である(最も深いのは丸亀城の二之丸井戸で65m・2番目は福知山城の本丸井戸で50m)。
「霧吹き井戸」とは、徳川家康が同城へ攻め込んだ時に突然霧が吹き出し、城を覆って隠して攻撃を阻んだという伝承による。
実際、城がかなりの長さで持ち堪えられることを、朝比奈泰朝の書状から窺うことができる。
以下が原文と意訳だ。
【意訳】 不慮の事態が起き、いいも悪いも無く、今川氏真は当城(掛川城)にお移りになられた。
お供衆も2000~2500人と多く、籠城している。
食料、その他、鉄砲、弾薬、矢などは、三年~五年分はある。
(中略)永禄11年12月21日(後略)
※朝比奈泰朝外2名から大沢基胤・中安種豊宛書状。
【原文】今度不慮之儀不及是非候。当城へ御移被成、御供衆勢多被推籠候。御兵糧其外てつ放、玉薬、御矢以下五、三年之間、不足有(間敷)。爲物主可打入之由候。(中略)恐々謹言。十二月廿一日 (後略)
「朝比奈泰朝外連署状(写)」
徳川家康に掛川城を攻められ小田原へ
徳川家康の掛川城攻めは、12月22日から始まったという。
本当に3~5年は籠城できる食料と武器・弾薬があったかどうかは分からない。
しかし、いずれにせよ北条の援軍を見込めない籠城戦には限りがあった。
半年を待たずして、翌永禄12年(1569年)5月6日、氏真は家康の開城要求を受け入れ、相模国の小田原城ではなく、伊豆国の戸倉城に退去することとなった。
講和条件は「徳川家康が武田信玄を駿河国から追い出して、駿河国を今川氏真に渡す」という驚くべき内容であったとされるが、定かではない。
5月15日、氏真は、天竜川河口の掛塚湊(掛川城の南西・磐田市掛塚)から大型船に乗り、5月17日、蒲原城(静岡市清水区蒲原)に到着したという。
掛川城から東の伊豆国へ行く場合、「塩の道」(後の「秋葉街道」)を通って相良湊(掛川城の南東・牧之原市相良)へ行き、そこから船で伊豆国へ行くのが一般的だ。
永井随庵『浜松御在城記』(天和元年・1681年)によると、「氏真ハ、五月六日、掛川浦ヨリ乗船(掛川ヨリ相良程近候得共、敵地ニ近故、被廻候哉)」とある。
武田軍(山県昌景隊)が金谷付近まで迫っていたので相良湊を避けたとするが、私は遠江侵攻を図って今川義忠が討たれた「塩の道・塩買坂」の通過を嫌ったのではないかと想像している。
なお、このとき氏真の護衛として、徳川家康は松平定家に掛塚湊まで送らせ、礼を尽くしたという。
今川氏真は、蒲原城から先は陸路を進み、5月23日、伊豆国と駿河国の国境にある戸倉城(徳倉城・静岡県駿東郡清水町徳倉)に到着。
翌・元亀元年(1570)9月3日、今川氏真は、小田原早川の屋敷へ移った。
正室「早川殿」の名はこの屋敷の地名によるという。
兎にも角にもいったんは北条家にて腰を落ち着けることができたのだ。しかし……。
小田原にも居場所がなくなった
北条の傘のもと、一度は安堵を得た今川氏真は、すぐに戦国の非情に直面する。
元亀2年(1571)10月21日、親今川の北条氏康が死ぬと、息子の北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦(「甲相一和」)。
信玄は氏政に対して氏真の殺害指令を出したのである。
普通の武将であれば「もはやこれまで」と切腹し、氏政は、その首を武田信玄に見せたことであろう。
しかし、こともあろうに氏真は、浜松の家康のもとへ逃げたのである。
浜松といえば、自分が誅殺した飯尾連龍の居城・引馬城があった地であり、家康と言えば、松平氏が今川氏に差し出した人質・竹千代のことであり、家康の家臣には自分が誅殺した井伊直親の息子・井伊直政がいるのである。
プライドはないのか? というより怖くはないのか?
実はこんな話がある。
かつて家康の父・松平広忠は、駿府の今川義元に助けを求めたことがあった。
この時、義元は、広忠を匿ったが、そろそろ岡崎城に帰ってもいい状況になったとして、「廃タルヲ興スハ、是、武門ノ面目也」と言って帰城させている。(『家忠日記増補追加』天文5年(1536)10月10日の条)
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家康は、この恩を知っていたのだろうか、厄介な存在であるハズの氏真を匿った。
そして天正3年(1575)1月13日。38歳になった今川氏真は、上洛のため浜松城を出る。
そして再び驚くべきことに、父・義元の仇である織田信長と会見したのだ。
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