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【今川氏真】
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信長から茶器を返却された!?
同年3月16日の京都・相国寺。
織田信長が2年前に建造した大船用の「百端帆」(木綿百反を繋いで作った大きな帆)を進上すると、信長は、以前、氏真が進上した今川家伝来の「千鳥の香炉」「宗祗香炉」のうち「宗祗香炉」を返したという。
さらに信長は、(氏真が)蹴鞠が得意だとという話を聞くと「4日後に行われるから、その場で披露せよ」と所望。
さすがにこればかりは氏真も怒り心頭になるかと思いきや、3月20日、相国寺において公家達と共に披露するのである。
人質にとっていた男を頼り、父の仇に所望されて蹴鞠を見せる――
常人には理解し難い場面であるが、この後、1615年の77歳まで生きているのだから、これも一つの生き方なのかもしれない。
ちなみに氏真は、駿府に下向した冷泉為益(為和の子)から和歌を
そしてこのとき信長から受け取った「千鳥の香炉(→link)」は、後に豊臣秀吉~徳川家康を経て尾張徳川家に引き継がれ、現在は国指定重要文化財として徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町)に保存されている。
家康から500石を拝領して京都生活
今川氏真は、その後、家康から近江国野洲郡(500石)を受領し、京都で暮らした。
天正3年(1575)4月、武田勝頼が三河国に侵攻したと聞くと、京都を出立して戦場へ。
5月21日【長篠の戦い】の時には牛久保城(現・愛知県豊川市牛久保町)で後詰を務め、戦後は家康から牧野城(愛知県豊川市牧野町丁畑)を与えられたが、2年後には解任されている。
また、天正3年(1575)7月中旬には、徳川家康の諏訪原城(遠江国榛原郡金谷町・現・静岡県島田市)攻めに従ったという。
「諏訪之原」は、現在の「牧之原」のことで、武田氏が築城後、城内に城の守護社として諏訪大明神を祀ったことからこの名になったと伝わる。
諏訪原城は、天正3年8月に落城し「牧野城」と改名。
氏真は同城主に任命されたが、天正5年(1577)3月1日には解任されて浜松に戻された。
つまり、今川氏真は、愛知県豊川市の牧野城主であり、静岡県島田市の牧野城主でもあったのである。
学者は「氏真は島田市の牧野城主」であり、「家康としては、遠江と駿河の境目にある諏訪原城攻めを皮切りに、元領主である氏真を前面に押し出して攻め込み、武田軍を駿河から追い出そうとしたが、期待はずれだったようである」としている。
果たして本当にそうであろうか?
氏真は、牧野城主時代に出家したらしく、解任時に発給した文書には「宗誾(そうぎん)」とある(この文書が今川家宗主として発給した現存最後のもの)。
豊川市の牧野城は、牛久保の北西に位置し、牛久保には氏真が三周忌を執行した父・義元の胴塚(現・大聖寺)がある。
思うに、今川氏真が城主になった牧野城は、旧・諏訪原城ではなく、父の墓の近くの牧野城であり、家康によって城主を解任されたのではなく、父の菩提を弔うために出家して武士をやめたので、新たな城主が選出されたのではなかろうか。
牧野城(旧・諏訪原城)主に選ばれたのは、今川氏真ではなく、松井松平家の松平忠次である。
家康は、周の武王が殷の紂王に大勝した場所が「牧野」(ぼくや・中華人民共和国河南省新郷市)であるので、「周」を含む「周防守」、さらに「家康」の「康」の一字を与えて「康親」として、「松平周防守康親」と名乗らせたという(家康は、人質時代に太原雪斎に学んだとされるだけあって、教養があり読書家でもあった)。
ともかく諏訪原城攻めに今川氏真が参戦したことは確かなようで、同城が落ちると、氏真は次の叙景歌を詠んだ。
大井川 風立らしも 薄霧の 村々うつる 瀬々の月影
【大意】大井川の複数の浅瀬に映る月にかかる夜霧の複数の塊が動いたのは、風が吹いたためだろう
牧野城主解任後の氏真の消息は不明であるが、浜松に居たと考えられる。
『浜松御在城記』の「天正7年(1579)10月9日」の記事に氏真をもてなした記述が残されているためだ。
信長「氏真に駿河国を与えるなら返せ」
徳川家康が駿河国から武田軍を追い出すと、織田信長は、家康に駿河国を与えた。
上述のように、掛川城の開城の条件は「氏真を再び駿河国の国主とする」であったとされる。
家康は、その約束を守ろうとしたのか、『東照宮御實紀』の中には「駿河国を浜松にいる今川氏真に与えて、今川家を再興したらどうか」と信長に提案したとある。
現代人から見てもムチャクチャなこの要望に対し、織田信長は「取り柄もない氏真に駿河国を与えるくらいなら、わしに返せ」と気分を悪くしたので、家康は仕方なく自分の領地にしたという。
確かに、和歌が好きで、父の仇の前で蹴鞠を披露し、更には牧野城主すら務まらない人物に駿河を任せるのは危険であろう。
なお、このとき家康が今川家の「再興」という表現を使ったのは、氏真が出家しており、武家としての今川家が断絶したことを意味しているように思われる。
では大名・武家としての今川家は、一体ドコで滅んだと考えるべきなのか。
一般的にその滅亡は「掛川城の開城」を以て終わったとされる。
しかし、戦国大名としての今川氏は滅亡しても、氏真は生き続けた。それもかなりしぶとく人生を永らえた。
彼は戦国大名としての人生の前期に終止符をつげると、文化人としての後期になると、浜松を出て京都四条に住み、今川入道仙巌斎(仙岩斎)と名乗って思うがままに活動範囲を広げている。
山科言継(やましなときつぐ)の『言継卿記(ときつぐきょうき)』によれば、上冷泉家6代為満邸で開催される「月次和歌会」にも出席するなど、山科家を中心に、駿府で知り合った公家や文化人と交流して過ごしたという。
そして慶長17年(1612)4月。
今川氏真は、駿府で家康に面会すると、旧知行地である近江国野洲郡(500石)を再び与えられ、さらに品川に屋敷を得て京都から江戸に移り、「品川殿」と呼ばれた。
なかなかに 世にも人をも 恨むまじ
戦国大名としては二つと例のない数奇な運命をたどった今川氏真。
討死も切腹もせず天寿を全うし、夫婦仲も良好であった。
信玄から殺害命令が下されると、元は臣下であった家康に助けを求めて生き長らえ、父の仇の信長に蹴鞠を見せたのも、本当に「プライドがなく」「世渡りが上手だったから」なのであろうか?
もしかしたら妻の「何が何でも生きて欲しい」という願いに応えようとした――夫婦愛ゆえの忍耐だったのではなかろうか。
慶長18年2月15日(1613年4月5日)、長年連れ添った妻(早川殿)と死別すると、翌・慶長19年12月28日(1615年1月27日)、彼女を追うようにして氏真も江戸で死去。
享年77(78とも)であった。
遺体は市谷(現・東京都新宿区市谷田町)の萬昌院に葬られる。
萬昌院は、寛文2年(1662)に牛込(東京都新宿区牛込)へ移り、現在は中野区上高田へ。
赤穂浪士の討ち入りで有名になった吉良上野介の墓がある萬昌院功運寺だ。
寛文2年(1662)、萬昌院が牛込に移る時、氏真の孫(範以の子)の今川直房は、姉がいた武蔵国多摩郡下井草(現・東京都杉並区井草)の観音寺を上井草(現・東京都杉並区今川)に移し、氏真夫妻の墓を萬昌院から移し、氏真を観音寺の開基とした(後に観音寺は、観泉寺と改名した)。
今川氏真の辞世は以下のものである。
なかなかに 世にも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして
【大意】 世の中も、人も、恨むまい。「この時代に合っていなかった」ということが、この身の罪なのだから。
果たして戦国大名・今川義元の子に生まれたことは、氏真にとって吉だったのか、凶だったのか。
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」https://naotora.amebaownd.com/