黒田長政/絵・富永商太

黒田家

黒田長政の実力は?偉大な父・官兵衛を持つ猛将はちょいと複雑な性格だった?

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【人物概略・黒田長政

黒田官兵衛とその正室・櫛橋光の嫡男として、1568年、播磨国の姫路に生まれる。

幼名は、戦国ファンにはお馴染みの松寿丸

なぜお馴染みかというと、父の官兵衛が荒木村重の説得に失敗して有岡城に幽閉されたとき、「官兵衛までもが裏切った!」と織田信長に勘違いされ、人質だった息子・松寿丸に殺害命令が下されたーー1578年にそんな話が残されているから。

松寿丸の命を救ったのが竹中半兵衛だった。

機転を利かせて別の首を差し出し、半兵衛配下の家に匿うことで最悪の事態を免れたと言い、実は、羽柴秀吉豊臣秀吉)も知っていたという見方が

強い(詳しくは以下の記事をご参照)。

松寿丸(官兵衛の子)に殺害命令!半兵衛が匿うことを秀吉は知っていた?

「 ...

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1582年に黒田長政は、中国地方の毛利攻めをする秀吉に従軍。
翌1583年の賤ヶ岳の戦いでも活躍し、その年に450石の領地を与えられている。

小牧・長久手の戦いでは中村一氏らと共に岸和田城の守備につき、鉄砲部隊の傭兵でお馴染みの雑賀衆・根来衆を返り討ちにして2,000石の加増をされた。

私生活においては、秀吉の親友だった蜂須賀小六の娘・糸姫を正室に迎えるなど。
豊臣政権内で父と共に順調な出世を遂げ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においても、前線基地である肥前名護屋城築城の惣奉行にも任じられ、朝鮮へも渡って戦った。

名護屋城の模型photo by お城野郎

しかし、これが豊臣政権への決別のキッカケともなった。

朝鮮出兵のドタバタで石田三成との不仲が高まり、秀吉没後は徳川家康へ接近。
1600年に保科正直の娘・栄姫を継室として迎え入れると、同年の【直江状】に端を発する徳川軍の上杉討伐では先陣を務めている。

当然ながらその年に勃発した関ヶ原の戦いでは徳川サイドで参加し、そして大活躍した。
なんせ小早川秀秋を味方に引き込むなどして、東軍随一の戦功とされたのである。

1614年大坂冬の陣では江戸の防御を命じられ、翌年、大坂夏の陣では秀忠と共に大坂入り。
その後、50万石の知行を与えられている。

なお、福岡藩の初代藩主は父の官兵衛ではなく黒田長政である。
1623年没。
享年56。

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誰だって比較されるのは嫌ですよね。
しかし、有名人の二世ともなれば、どうしだって避けられない運命。

元和九年(1623年)8月4日に亡くなった黒田長政も、おそらくそれに悩まされた一人でしょう。

上記の通り、黒田官兵衛の嫡男。
主な経歴についてはすでにご説明済みですので、以降は長政の人となりやエピソードを見て参りましょう。

軍師なんて称される父を持っているだけに知略タイプの武将かと思いきや、むしろ猛将タイプ。
それゆえか、周りの人々とぶつかることもありました。

 

歴戦の勇者・又兵衛を使いこなせず

一つは、後藤基次後藤又兵衛)との話。
官兵衛に仕えていたので、当然代替わりの後は長政に仕えるのが筋ですが、長政は基次を黒田家から追い出してしまっています。

しかも「奉公構ほうこうかまい」という罰則付きでした。

奉公構とは、他の大名家に「コイツこの前クビにしたんだけど、ロクデナシだからアナタの家でも雇わないでくださいね。つか、もし採用したらウチとの関係はあれだからね!」という手紙を出すことです。
これによって再仕官ができなくなるので、武士にとっては切腹の次に重い刑とされました。

他にこの刑を受けた有名人としては、戦国の破天荒・水野勝成などがいます。

水野勝成が戦国最強武将!全国を流浪したリアル傾奇者は家康のいとこだった

も ...

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とはいえ基次は、勝成ほどのハチャメチャはしていません。
むしろ黒田家にとってなくてはならない重臣でした。

なので、どうして長政がこんなに重い刑を科したのかははっきりわかっていません。
ただ、この二人が元々ウマが遭わないにも程がある関係だったらしく、イザコザがあれこれ伝わっています。

 

隣で死にそうな長政を放置するほうが悪かろう

例えば、戦に関するものだとこんなのがあります。

文禄の役(朝鮮の役前半戦)で、長政が敵将と組み合っているうちに川に落ちてしまったことがありました。
戦の最中に川を渡るだけでも相当難しいですし、組み合いながらとなるといつ首を取られるかもわかりません。

このとき基次はすぐ側にいたのですが、全く救助も助太刀もしませんでした。
人から尋ねられると「ウチの殿なら大丈夫だから、もう少し見ていよう」と真顔で言い切ったそうです。

運よく長政が勝ち、敵将の首を取ったものの「なんで助けてくれなかったんだよ!」と憤慨していたとか。そりゃそうだ。
「勝てば官軍」に近かった戦国時代ですから、これは基次の言い分が通じないのも無理はありません。

こんな感じで二人の価値観は真逆でも生温いような違いっぷりだったため、似たような行き違いでお互いストレスを溜めていたらしき逸話が複数あります。
それでも父の代からの功臣ということでしばらくは厚遇していたのですが、江戸時代に入って長政がブチ切れてしまいました。

 

長政と仲の悪い大名と仲良くなったりして

なぜなら黒田長政と仲の悪い細川忠興が基次と仲良くなってしまったからです。

長政は「忠興がムカつくから細川家とは付き合わないように!」というお触れを黒田家全体に出していたので、それを破った基次を許せなかったのでしょう。
それでも基次は黒田家から追い出された後、細川家に身を寄せていたりします。懲りてねぇw

ちなみにその後、基次は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として真田幸村真田信繁)らと共に参戦し、道明寺の戦いで討死しています。

長政とは直接対峙していませんが、参戦自体はしていたので複雑な気持ちだったかもしれませんね。

 

酒豪・太兵衛とも気が合わず?

もう一つは、これまた重臣・母里太兵衛(友信)とのエピソードです。

母里太兵衛/Wikipediaより引用

彼も官兵衛の代から仕えていた人で、生涯に七十六人もの首を取ったという猛将。
福島正則と飲み比べをして名槍”日本号”をもらった話でも有名ですね。

母里太兵衛は黒田家臣でNo.1の暴れん坊!酒呑み勝負で名槍ゲットン!

慶 ...

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彼は基次と比べれば長政との仲は悪くありませんでしたが、それでも”気の置けない仲”ではなかったようです。

長政の息子・忠之が袴着(はかまぎ・七五三の前身にあたる儀式)をしたときのこと。
友信は将来の当主に武功あれと思って「お父上以上の功を挙げなされよ」と言いました。

この「父以上に」というのはいわばテンプレな験かつぎの言葉だったのですが、長政には「長政殿の功績は大したことないから、それ以上に立派なことをしなさいよ」という意味に聞こえたらしく大激怒。

「俺は朝鮮でも関が原でもあんなに働いたろうが!お前は俺をpgrするのか!!?」(超訳)
と怒鳴り、友信をその場で殺そうとしました。ちょっと加熱しすぎですね。

幸い、栗山利安という黒田家臣の筆頭に当たる人がなだめて収まったのですが、長政の導火線は短いなぁ、と。

他にも官兵衛から「お前は優柔不断だから注意しろ」と言われたなど、猛将の割には複雑な性格であったらしき話がいくつかあるので、本人も悩んでいたのかもしれません。

辞世の句はこんな感じ。

「此ほどは 浮世の旅に 迷ひきて 今こそ帰れ あんらくの空」

何となくそんな気持ちがうかがえるように思うのですが、気のせいですかね。

でも、現代人にとっては腹黒もとい完璧?なイメージの強い官兵衛よりも、悩み多き(っぽい)長政のほうが親近感が湧いてきたりも?

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
黒田長政/wikipedia

 



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