毛利秀元/wikipediaより引用

毛利家

【戦国合戦譚・毛利秀元】初陣で毛利軍3万の総大将を務めた元就の孫

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毛利と聞いて、誰しも思い浮かべる毛利元就

「三本の矢」で有名な元就の息子達は以下のメンバーです。

【毛利元就 三人の息子たち】

長男・毛利隆元
二男・吉川元春
三男・小早川隆景

この元就、全部で9人ないし10人の息子がいるとされているのですが、四男以下の子供達を「虫けら」呼ばわりしております。
が、四男以下の子供たちも決してボンクラではありません。

では、なぜ実の子たちをそんな風に扱ったのか?
一応ちゃんとした理由はあります。

三男までが正室生まれ。
その後が継室(正室が亡くなった後の正妻)もしくは側室生まれだったため、区別をつけるべく【わざと悪しざまに言ったんじゃないか】とされているのです。

そして、ぞんざいに扱われた子の子孫には、秀吉に高く買われるほど才気あふれる者もおりました。

その一人が天正七年(1579年)11月7日に誕生した毛利秀元です。

「虫けら」と呼ばれて一緒くたにされていた、元就四男・穂井田元清(ほいだもときよ)の息子。
つまり元就から見れば孫にあたるのですが、この方、14才の初陣が文禄の役(朝鮮出兵)であり、毛利軍3万もの兵を任されているのです。

なぜ、そんなことになったのか?
早速、振り返ってみましょう。

 

初陣が文禄の役 幼い頃から優れた武将だった

この毛利秀元は、小さい頃から武将としての資質に優れた人でした。

初陣が【文禄の役】だったことからも、それは窺えます。

このとき毛利軍を率いていたのは従兄であり当主の毛利輝元だったのですが、渡海後、体調を崩してしまっていました。
朝鮮半島は近所とはいえ気候が違いますし、水が合わなかった可能性もあるでしょう。

そこでこの知らせを受けた豊臣秀吉は、「アイツならできると思う!」として、毛利秀元に毛利軍の大将を申し付けたのです。

ときに秀元十四歳。
初陣としてはちょうどいい年頃ですが、大将となると話は別でしょう。

さすがに徳川家康前田利家をはじめとした大名達も反対しておりまして、それもそのはず【文禄の役】は次のようなメンバーで構成されておりました。

1番隊:小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信(約19,000人)

2番隊:加藤清正鍋島直茂・相良頼房(約23,000人)

3番隊:黒田長政・大友義統(約11,000人)

4番隊:毛利勝信(森吉成)・島津義弘・高橋元種・秋月種長(約14,000人)

5番隊:福島正則長宗我部元親蜂須賀家政・生駒親正(約25,000人)

6番隊:小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂(約16,000人)

7番隊:毛利輝元(約30,000人)

8番隊:宇喜多秀家(約10,000人)

9番隊:豊臣秀勝・細川忠興(約12,000人)

船手衆(水軍):九鬼嘉隆・藤堂高虎・加藤嘉明・来島通之

いずれも戦国期のド真ん中に各戦場で大活躍した歴戦の勇士ばかり。
初陣の若武者が入り込む余地はないほどです。

しかも毛利軍は最大の3万人からの兵を引き連れていくのですから、万が一にも些細な失敗から総崩れなんてあってはいけません。

しかし、秀吉は
「小早川隆景もいるし大丈夫じゃろ」
と押し通してしまいます。

 

虫けらが日本代表キャプテンに

無茶振りにも程があんだろ……。
と、いつものツッコミをしたいところですが、秀吉がそう思ったのには、珍しくちゃんとした理由があります。

秀吉はこのころ、九州・名護屋で諸将の監督をしておりました。
大坂に残してきた母親が危篤であると知らされたのです。

大急ぎで帰路についたのですが、途中、関門海峡「死の瀬」とも呼ばれる難所で船が座礁。
このとき、お供をしていた秀元が小舟を使って秀吉を救助し、しかも二心がない証拠として家臣ともども佩いていた刀を海に捨てたのです。

手際の良さと気配りようを秀吉は覚えていて、必ず良い武将になると見込んだのでした。

ご指名を受けた秀元は、初陣にも臆せず渡海します。
そこで見事に総大将をやってのけ、諸将を勝利に導きました。

見立てが当たった秀吉は当然ご満悦です。

「良い子の秀元にはワシの養女と領地をやろう。これで親戚じゃぞワハハハハ」と嫁までプレゼントしてくれました。

秀元はこうして、毛利本家とは別に一目置かれるようになったのです。

※慶長の役でも宇喜多秀家と共に8番隊を率いておりました

 

関ヶ原で西軍の将としてやる気満々だったが

秀元の青年時代までは、秀吉が日本を統一し、概ね安定させていた時期にあたります。
ゆえに秀元自身の戦功と呼べるものは、実はそう多くはありません。

しかし、この「太閤の親族」「初陣で総大将を務めた」ことから、関が原本戦の毛利軍を率いる役を任されるのです。

秀元は、秀吉の恩を直で受けていますから、もちろん東軍を殺る気満々。
毛利軍が陣取ったのは家康本陣の後方かつ高所でした。

前方の味方と協力して動けば、家康を討ち取ることも不可能ではなかったでしょう。

しかし、皆さんご存知の通り、毛利軍は戦うどころか一歩も動くことなく、関が原は終わってしまいます。

それは秀元が臆病風に吹かれたのではなく、毛利家内の思惑が原因でした。
実は関が原前の毛利家は、到底一枚岩とはいえない状況だったのです。

秀吉時代の手柄によって、秀元は毛利本家から独立して自分の家を持っていました。
ただしまだまだ若かったので、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という毛利家の外交僧が後見人についています。

この恵瓊がかなりの曲者で……。
勝手に「毛利家は一丸となって石田殿に味方します!」と決めてしまいました。

主である毛利秀元や毛利輝元には事後報告で済ませるという横暴っぷり。
見かねたのは秀元や輝元よりも、吉川元春の子である吉川広家でした。

「あの坊主何してくれとんじゃ! 輝元様は家康と義兄弟同然なんだから、そっちにつくに決まってんだろーが!」

しかし広家がいくら鼻息を荒くしたところで、既に恵瓊が返事をしてしまっている以上、軍を動かすとすれば三成方につくしかありません。
ここで広家は頭を切り替えます。

「兵を動かしても、戦わなければ何とかなるんじゃね?」
さすが役者やのぉ。

 

分家にお世話になった毛利本家

さっそく広家はこの妙案を家康に伝え、毛利軍を動かさない代わりにお家の安泰を取り付けました。

が、家康は関が原の後、見事にこの約束を反故にしてしまいます。
「三成方についたこと自体が気に食わん」というわけです。

結局、張本人である安国寺恵瓊は打ち首、毛利家も所領を1/4に減らされるという「滅びるよりはマシ」程度の扱いを受けてしまったのでした。

そもそも家康の目的は、上杉や毛利を始めとした「自分以外の大大名」の力を弱めることにあったわけですからね。
そこに気付けなかったのが広家の失態かもしれません。

こうして毛利家は急激に力を失ってしまったわけですが。
実はこの1/4という所領は、かつて秀元が秀吉からもらった土地なのです。

しかも「ここだけは毛利本家がどうなろうと、秀元のモンだから誰も手をつけてはならん!」というお墨付き。
まだ表向きは「豊臣の家臣」の立場だった家康なので、さすがにこれを覆すことはできません。

戦に負けた上、本家が分家の土地に転がり込むという、実にみっともないことになってしまったのです。

 

長州藩の支藩となる長府へ

それでも秀元は文句も言わず、自分のものだった土地を本家に譲り身を引きました。

さすがに輝元も悪いと思ったのか。
後に長州藩の支藩となる長府を秀元へ分け与えています。

が、やはり完全にはわだかまりが消えなかったようで、輝元の子・秀就の代にはちょくちょくいざこざが起きるようになってしまいました。
結局幕府の仲介で本家・分家の間は取り持たれるんですけれども。

若いころ優秀で実績もあっただけに、アホな上司の失策が許せなかったのかもしれません。

「もっと早く生まれていたら」
というのは伊達政宗絡みでよく出てくるフレーズですが、こうしてみると秀元にも当てはまりそうな気がします。

なお、優秀過ぎる伯父兄弟と元就さんについて、詳しくお知りになりたい方は以下の記事も併せてご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
毛利秀元/wikipedia

 



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