慶長二年(1597年)7月9日、穂井田元清(ほいだもときよ)が亡くなりました。
この方は毛利元就という、戦国超ビッグネームの四男ですが、かなりの戦国ファンにしか知られていない存在かと思われます。
なんと言っても毛利家は
長男・毛利隆元
二男・吉川元春
三男・小早川隆景
上記、三本の矢が有名であり、四男以下については元就が「虫けら」だなんて怖いことも言っているほどです。
しかし、天下の謀将の息子がそんな凡将以下の人物になるワケもなく、穂井田元清も結構な活躍をしております。
本稿では、その軌跡を見てまいりましょう。

穂井田元清/wikipediaより引用
「虫けらのような分別のない子供たち」って!?
穂井田元清は、三矢の教えの元ネタとなった『三子教訓状』の中で、元就に「虫けらのような分別のない子供たち」とボロクソに言われていたうちの一人です。
でも、この書状が書かれたときってその子たちまだ年齢一ケタ。
そんな小さな子をさほどに罵るってのもどうなのよ? という気がしなくもありません。
ただし、単になじるというよりは、
「最初の正室・妙玖の子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景(三本の矢)と、側室や継室の産んだ子供を区別するためだった」
とも言われていて、それなりに気も使ってます。
なんせ「虫けら」の後には「もしそれなりの出来になったとしたら、遠方にでも領地をやってくれ」といったことも書いています。

毛利元就/wikipediaより引用
宇喜多や秀吉との戦いに参加
実際、稀代の謀将・元就の子がそんなアホなわけはありませんでした。
穂井田元清は立派に成長。
元就の後半生から豊臣秀吉の時代にかけて、毛利家を陰になり日向になって支えました。
元就が九州に手を出したときには、毛利領の東端・備中(現在の岡山県西部)で宇喜多直家に攻め取られた城を奪い返す活躍も見せています。

宇喜多直家/wikipediaより引用
また、その翌年である永禄十二年(1569年)には九州に同行し、数々の戦いに参加したかと思えば、年の内に備中へ戻っています。忙しいですね。
一旦は負けてしまったのですが、数年後には見事挽回しています。
その後も宇喜多家との戦いに参加していましたが、織田信長の命で豊臣秀吉による中国攻めが始まると、今度は秀吉と戦うことになりました。
このときは、秀吉軍に包囲された味方を、自ら兵を率いて救出するなどの活躍をしております。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
主家であり実家である毛利家が秀吉に従うことになった後は、元清も素直に臣従しています。
四国及び九州征伐に参加し、日頃の忠勤を輝元からも評価されて、1万2000石の領地をもらいました。
また、吉川元春や小早川隆景が他の家として毛利家を支える立場であったのに対し、元清は「血縁のある家臣」として毛利家の家老といった立ち位置になっていたようです。
息子も慶長の役で毛利の総大将!
朝鮮の役前半戦・文禄の役では、病身の毛利輝元に代わって毛利軍の総大将を務めるほどですから、やはり日頃から信頼されていたのでしょう。
後半戦である慶長の役では、穂井田元清の息子・毛利秀元がやはり毛利輝元の代理として総大将をやっています。
親子揃って確実に元就の血を引いていることがよくわかりますね。

毛利秀元/wikipediaより引用
ところで、朝鮮の役って休戦期間を含むとだいたい6年くらいやってたんですけども、輝元はいったい何年間闘病してたんでしょうね。
もしかして、元清が「生きて帰って来られるかわからないところに輝元様を送るわけにはいかないから、病気ということにして、代わりに私が行きましょう」とか言ってたんでしょうか。
日頃から母や弟たちのことを気遣うやさしい人だったそうなので、いかにもありそうな話です。
元就は息子より孫の心配をしたほうが良かったんじゃないですかね……(ボソッ)。
しかし慣れない土地で頑張りすぎたせいか、帰国後の元清は程なくして床についてしまいます。
ちょうど異母兄・小早川隆景も病がちになっていて「どちらが先にこの世をお暇するだろうな」なんて話をしていたとか。

小早川隆景/wikipediaより引用
隆景とは元就存命中から共に兵を動かすことも多かったので、昔語りに花を咲かせることもあったのでしょうね。泣ける。
お金の計算については別の兄弟がお得意科目
元就の側室の子供の中には、穂井田元清の他にも一廉の人物がいます。
二宮就辰(なりとき)という人で、元就の正室が病みついていた頃に生まれたため、しばらくの間、毛利の血を引くことを隠されていました。
身分や立ち居地としては元清と同じになるはずが、そうした事情のせいで出生年や誕生日がはっきりしていません。
しかし、能力としてはやはり元就の息子。
特にお金を工面することについては大いに才能を発揮し、広島城築城に際しての資金繰りでは、検地その他あらゆる手段を講じました。

広島城
広島城については、秀吉に翻意のないことを示すために、築城予定地にわざと地盤の良くないところを選んだともいわれており、余計お金がかかったという説がありますね。
現場監督は元清と就辰二人でやっていて、これを知っていたからこそ何が何でもお金を集めたのでしょう。多分。
毛利家は現在まで血筋が続いている大名家の一つですが、実は途中から元清の系統になっています。
輝元の子孫が断絶してしまったので、元清の子孫が本家に入って跡を継いだのです。
つまり、元就の血が今も確実に残っていることになるわけですね。
今頃、元就はあの世で息子に「毛利の血を残してくれてありがとうよ。虫けらとか書いてごめんな」とか言ってるかもしれませんねえ。
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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『【全国版】戦国時代人物事典』(→amazon)
穂井田元清/wikipedia
二宮就辰/wikipedia





