毛利秀包

毛利秀包/wikipediaより引用

毛利家

西の最強武将と義兄弟だった毛利秀包(元就の九男)勇猛で悲運な生涯35年

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隆景の意向で秀包は地位を追われた?

輝元の養子に関する話を聞き、それに反対したのが隆景です。

彼がこのような対応をとったのち、秀俊を自身の養子に迎えた理由を『陰徳太平記』という史料はこう言います。

「秀俊はかねてより評判が悪かったので、彼が毛利家の養子になるくらいなら自分の家に入れようと考え、秀吉に『もう輝元の養子は秀元と決まっています』と伝えた。

ただ、これで秀吉の機嫌を損ねては大変だと思い、『私は今まであまり恩返しができなかったので…』と、秀俊を自身の養子にするよう提案した」

毛利家を救うために小早川家を差し出した――言い方は悪いかも知れませんが、これがいかにも正しいように見えます。

しかし、この記述を裏付ける有力な証拠がありません。

なんせ秀元の養子入りが決まったのは、秀包廃嫡の数年前のことです。詳細は後述しますが、秀吉の実子である豊臣秀頼の誕生時期などを考えても、この史料をそっくりそのまま信じるのは難しそうなのです。

一方「秀包の養子入りを願い出たのは秀吉ではなく隆景」という部分については、可能性を否定できません。

秀吉から見ると「隆景は秀吉の養子を迎えられるような家格をもってなかった」ためです。事実、秀俊の養子入りが決まったとたん、隆景の地位が引き上げられています。

まとめますと……。

隆景が「秀俊の資質を疑問視した」というのではなく。

毛利家に入る算段が自身の横やりでオジャンになり責任を感じた。

あるいは秀吉の養子を迎え入れることで家格上昇をたくらんだ、あたりが本音ではないでしょうか。

情勢に大きな変化がなければ、秀吉も秀俊を手放さなかったでしょうが、先ほども触れたように、彼には待望の実子である豊臣秀頼が誕生していたのです。

となれば、これまで「蝶よ、花よ」と愛を注いで養育してきた秀俊は邪魔者でしかない。

「上手いことアイツをのけ者にできないか」

そう考えていたところに隆景の申し出があったのは、渡りに船だったでしょう。もしかすると、隆景も秀吉の悩みを察して先回りでこの提案をしたのかもしれません。

いずれにしても、秀包は家を追われ、秀俊は新たな小早川家の後継者として「小早川秀秋」を名乗りました。

そうです、関ヶ原の裏切り者としてお馴染みのあの秀秋さんです。

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秀包としても、秀秋としても、おそらく不本意な出来事だった気がしてなりません。

 


不遇のまま関ケ原で敗れ、のちに急死

政争の結果、後継者の座を追われた秀包。

彼は何一つ文句も言わず身を引いたといいます。

加えて、その後も豊臣家のために力を尽くしました。

慶長2年(1597年)には【慶長の役】に従軍し、局所戦では武勇を見せました。

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関ヶ原の戦いでは、毛利家を守るべく西軍につき、久留米城主として前哨戦といえる【大津城の戦い】に参戦。

交通の要所を落とすため輝元の叔父・毛利元康が率いる大軍に参加しますが、しぶとい抵抗に遭い攻略が遅れてしまいました。

そして、ようやく城を落とした矢先に関ヶ原の本戦スタート!

秀包だけでなく元康や宗茂も肝心の戦に参戦できず、西軍は敗戦を迎えてしまうのです。

西軍の敗因は、小早川秀秋による寝返りとも言われたりしますので、秀包がどのような心境で知らせを聞いたのか。心中察するに余りあります。

それでも、秀包は主戦派として大坂に入り、宗茂とともに徹底抗戦を主張したといいます。

ただ、毛利家当主の輝元がそれ以上の戦を望まず降伏したため、秀包もやむなく国許へ帰りますが、西軍の主要人物だったこともあり改易処分を下されてしまいました。

秀包はわずかな領地を与えられると、間もなく発病。

赤間関で養生しながら若くして体力が回復することなく、慶長6年(1601年)、35年の生涯に終わりを告げます。

家は息子である元鎮が継ぎました。大名家として再興することはありません。

毛利家を裏切った秀秋も慶長7年(1602年)に急死しており、実子がなかったため小早川家の血脈は途絶えています。

って、なんだか切ない展開ですよね……。

やはり秀包にとっても秀秋にとっても家督の交代は不幸であったという他ありません。

秀包は後世に名声を伝える機会を失い、秀秋は悪名高き裏切り者として葬り去られました。

私は二人のどちらにも心から同情してしまいます。


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文:とーじん

【参考文献】
『国史大辞典』
『朝日日本歴史人物事典』
河合正治編『毛利元就のすべて』(→amazon
黒田基樹『小早川秀秋 (シリーズ・実像に迫る5)』(→amazon
光成準治『小早川隆景・秀秋』(→amazon
WEB歴史街道「毛利秀包~立花宗茂との友情、小早川秀秋との遺恨」(→link

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