織田家

信長最大のピンチ「金ヶ崎の退き口」生還できたのは、あの久秀のお陰!?

元亀元年(1570年)4月27日は、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦があった日です。

「金ヶ崎の戦い」「金ヶ崎崩れ」といった呼び方もあります。

織田信長浅井長政に裏切られた結果、越前から命からがら逃げ出した――という撤退戦のことであり、戦国ファンには有名な話かもしれません。

今回は、初めての方にもわかるよう、事の経緯を見ていきましょう。

例によってところどころ異説もあるのですが、今回はスタンダードなほうでお話します。

 

朝倉よ、京都にいるから挨拶に来いや

金ヶ崎の退き口は、織田信長の戦いの中でも一風変わった特徴を持っています。

一般的に信長というと、殺戮のイメージや桶狭間の戦いのように劇的な戦いを思い浮かべるかもしれませんが、この合戦は「退き口」という呼び名がついている通り「撤退するときの戦い」でした。

当時、信長は同盟相手の徳川家康と共に、北陸の朝倉家を攻めておりました。

朝倉家の当主・朝倉義景に「今はワシが室町幕府の守護者だから、京にあいさつに来い」という命令を出していたものの、義景が無視し続けていたからです。

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現代人からすると「それだけで攻めるとか乱暴すぎ」という気もしますよが、既に室町幕府は実権を失っていたため、その守護者となれば将軍も同然。

少なくとも信長にとっては織田家の命令を無視するということは、あってはならない事態だったわけです。

一方、義景が信長の命令を無視し続けたのは、朝倉家が織田家よりも由緒ある家柄だったため、「信長だか何だか知らないけど、何でポッと出の奴の言うことを聞かないといけないの? バカなの?」(超訳)と考えていたからでした。

名家のプライドと、新興勢力がぶつかり合ったというわけです。

 

まさか浅井が裏切るなんて……

かくして朝倉家の北陸各所を攻め取ることにし、実際に攻略していった信長。

ここで予想していなかった事態が起きます。

妹・お市の方の嫁ぎ先であり、北近江を治めていた浅井家(浅井長政)が、突如、織田家を裏切って挟み撃ち攻撃を仕掛けているという報告が入ったのです。

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実は、信長はお市の方を長政に嫁がせる際、「婿殿のお付き合い先である朝倉家には攻めこまない」という約束をしていました。

つまり、先に約束を破ったのは信長です。

そのため、浅井家の当主・長政は「妻の実家をとるか、昔なじみをとるか」という板挟みになっていました。

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長政個人としてどう思っていたかはわかりませんが、家臣たちや父親の久政は「先に約束を破ったのは信長のほうなんだから、こうなった以上戦うべき!!」という意見。

長政はこれを抑えきれず、背後から信長を攻めることにしたのです。

 

お市が小豆袋を送った逸話は作り話でしょう

信長は当初、「浅井家裏切り」の報を信じませんでした。

長政は元々「賢政」という名前だったのを、お市の方との結婚=織田家との同盟に際し、信長から一字もらう形で「長政」と改名しています。

信長自身も浅井家との同盟を喜び、当時、婿方が負担することになっていた結婚費用を織田家のほうが払っていたくらいでした。

信長からすれば「これだけ礼を尽くしたのだから、浅井家は今後織田家の見方になるに違いない」と思っていたのです。

しかし、長政は古い付き合いである朝倉家を選びました。

最初は信じなかったものの、度重なる報告により誤報である可能性がなくなったと判断した信長は、完全に包囲される前に北陸から撤退することを決めます。

このときの俗説として「お市の方が両端を縛った小豆袋を送り、”織田家は袋のネズミである”ということを暗に伝えた」という話もありますね。

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信長公記』では一切触れられておらず、後世の作り話である可能性が高いです。

が、お市の輿入れに際して付けられた織田家の家臣が信長へ直接連絡を送ったのではないか?という見方もあり、そうなると100%作りとも思えなくなります。

いずれにせよ、こうした経緯で信長は撤退を選び、朝倉家はそれを追撃し……となったわけです。

 

殿を務めたのは秀吉に光秀 さすがに家康は……

結果から言えば、信長は助かりました。

でないと本能寺の変までの諸々が起きなくなってしまいますしね。

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後世からすると、この戦の見どころは結果よりも経緯ではないでしょうか?

信長が安全圏に逃げるまで、織田家の諸将がそれぞれ違った点で大活躍しているからです。

まず挙げられるのは、豊臣秀吉たちが務めた、殿(しんがり・撤退するとき最後尾になって、追手を振り切ったり足止めしたりする部隊)の功績です。

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講談などでは秀吉が自ら殿を願い出たという話もありますが、実際には信長が命じていたようです。

また、明智光秀などもこのとき殿を務めたとされています。

殿は大将の命を預かる大切な役目といっても過言ではありませんから、普段の接しようはどうあれ、信長は光秀を信頼していたことがわかります。

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家康もここにいたという説がありますけれども、配下ではなく同盟相手だった徳川家がそこまでするか?というと疑問が残るところです。

まして、普段から信長は家康に対してまさに別格な扱いをしていますし、大名が生き残ることの意味も十分理解しています。

家康が申し出たとしても、気持ちだけ受け取って別ルートで逃げさせた、という方が自然ではないでしょうか。

 

戦国のボンバーマンが朽木を説得し……

一方、信長自身は10人ほどのごくわずかな供を連れ、一路、京都(経由して岐阜城)を目指しました。

問題は、途中、朽木元綱という武将の勢力圏を通らなければならないことです。

朽木家もまた浅井家と浅からぬ縁がある家でしたので、場合によっては信長を捕まえて浅井家に差し出すこともありえます。

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どうしたものか……と迷う信長を、意外な人物が救いました。

後に戦国のボンバーマンとして有名に(?)なる、松永久秀です。久秀は「朽木を説得して、穏便に通れるよう図らいましょう」と申し出ました。

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久秀はこの時点でも油断ならない人物として認識されていましたが、弁が立つのもまた事実。信長は思い切って、久秀に交渉を任せます。

どうやって元綱を説得したのかまでは記録にありませんが、結果として久秀の交渉は成功し、信長一行は無事岐阜へ落ち延びることができました。

つまり、金ヶ崎の退き口は、

「戦闘以外の面でも織田家が総力を結集した」

出来事だったのです。

ただの運やなりゆき、といえばそれまでですけれども、隠れたオールスター戦と見ることもできるのではないでしょうか。

長篠の戦いや本能寺の変ほどのインパクトはありません。

しかし個人的には「信長について映像・小説などの創作をするのであれば、ぜひ気合を入れて作っていただきたいシーンだな」と思います。

大河ドラマ『麒麟がくる』でどうなるか。楽しみですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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