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織田家

滝川一益こそ信長家臣で最強のオールラウンダー!62年の波乱万丈な生涯まとめ

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好きな”戦国武将”は?
と問われて、多くの方がイメージするのは合戦で華々しく活躍するような、武勇タイプの人物ですよね。

しかし現実に戦国武将は、内政や外交など、政治的な面も強く求められ、武勇よりも別の一面で才能を発揮した人も少なくありません。

特に織田信長の家臣たちは、信長自身がオールマイティなだけに、一芸に秀でているだけでなく、時に万能タイプが好まれました。

今回はその一人、滝川一益のお話です。

甲賀出身ゆえに忍者では?
という話があるほど、出自に関しては謎の多い人物。

信長亡き後の清州会議では、参列を予定していたほど織田家で力のある存在でした。
それは後述するとして、まずは一益の生まれから見ていきましょう。

 

滝川一益は信長よりも9歳上

一益は大永五年(1525年)生まれといわれています。
信長よりも9歳上で、柴田勝家より3歳下という年代です。

信長に仕え始める前のことは不明、仕えるようになった時期もはっきりしていません。
甲賀出身らしいということから、「滝川一益は忍者出身」とする向きもあるようですが……さすがにそれはないでしょうね。

ただし、若い頃から鉄砲の名手として知られており、信長の前で射手としての腕を披露して召し抱えられたという説があります。

また『信長公記』の首巻に登場することや、一益の親戚とされる慈徳院という女性が、信長の嫡男・織田信忠の乳母だったとされていることなどから、比較的早い時期に士官したのは間違いなさそうです。

信長公記首巻で初めて一益の名が出てくるのは、信長が催した盆踊り大会のシーンです。
といっても、ここには「滝川一益の家来衆が餓鬼の仮装をした」ということしか書かれていないので、一益本人がどうしていたのかはよくわかりません。

この盆踊りが何年頃のことなのかも、信長公記にははっきりした記載がありません。

しかし、
【踊りのような無防備になる場で、新参だったであろう一益の家来が複数人参加していた】
ことが、信長の滝川一益に対する信頼を示しているのではないでしょうか。

※このときの盆踊りに着目したのが以下の記事となります

仮装パーティで信長はどんな格好?~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第27話

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伊勢侵攻に功あり

滝川一益の名前が史料に頻出するようになるのは、永禄三年(1560年)ごろ。
伊勢や長島の攻略を提案してからです。

信長はこの意見を容れ、滝川一益に攻略の最前線を任せます。

敵を調略したり、城をだまし取ったり。
一益は、さまざまな手段で攻略を進めていきました。
こうした手法が【一益忍者説】の根拠となったのかもしれません。

滝川一益は交渉事も得意としており、永禄6年(1563年)には、信長と松平(徳川)家康の間で同盟を結ぶために、連絡役を任されたといわれています。

戦国ファンにはお馴染みの【清洲同盟】です。
ここでも一益が信長からかなり信任されていたことがわかりますね。

永禄10~11年(1567~8年)の織田軍による伊勢攻略では、先鋒の一員となりました。
北畠家の本拠となっていた大河内城を、津田一安と共に受け取り、他に、安濃津城と渋見城の二つも、一益が守備するよう命じられました。

津田一安は信長の親族とされる人で、この頃から滝川一益と連携して事にあたることが多くなっています。
彼も伊勢の支配を受け持ちながら、武田氏相手の交渉を担当していたため、一益とはいろいろと打ち合わせて動いていたのかもしれません。

 

本拠地の喉元を守備したり遠征に出向いたり

元亀元年(1570年)9月の第一次石山合戦。
一益は現地には行ってはいませんが、あながち無関係ともいえません。

なぜなら、この戦いの最中である同年11月、信長の弟・織田信興が小木江城(愛西市)で長島の一向一揆勢に討たれているのです。

織田信興とは:信長の弟、長島一揆勢に攻められ自害する

一益は桑名城(桑名市)にとどまり、防衛に備えていました。

このあたりから、滝川一益は

”信長が大きな戦をするときには遠征についていき、そうでないときは尾張や長島の守備”

という動きが基本になっていきます。

というのも1570年から1574年にかけて【長島一向一揆】との争いが熾烈になり、織田家で伊勢方面を担当していた一益はその押さえに置かれたんですね。
伊勢は、当時の織田家本拠地【尾張→美濃】と接する重要な位置にありましたから、非常に大切なところだったのです。

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この難仕事を一益は見事にやってみせました。

特に武田信玄が亡くなってからは織田家の勢いが炸裂する時期でもあり、

・天正元年(1573年) 一乗谷城の戦い
・天正二年(1574年) 長島一向一揆
・天正三年(1575年) 長篠の戦い・越前一向一揆
・天正四年(1576年) 天王寺合戦
・天正五年(1577年) 紀州征伐
・天正九年(1581年) 伊賀攻め

といった主要な戦いが各地で行われ、滝川一益も伊勢の防御ばかりでなく、最前線で奮闘しております。

特に、地元の戦い・長島一向一揆では、九鬼嘉隆らと共に水軍として参戦し、海上から文字通り援護射撃。
この功により、信長から長島城と北伊勢8郡のうち5郡を与えられました。

当時複数の郡を任されていた信長の家臣は、

・柴田勝家(近江中部)
佐久間信盛(近江南部)
羽柴秀吉(近江北部)
明智光秀(近江志賀郡と北山城)
丹羽長秀(若狭)
・塙直政(南山城)

など、一軍クラスの武将ばかりです。
勝家と信盛は織田家の家老ですから当然として、一益は他の三人とともに、実績と信頼でこの立場を手に入れたのでした。

長篠の戦いにおいては、鉄砲隊の総指揮をとっていました。
最前線で勇猛に戦うよりも、後方からの射撃で敵の兵力を削いでいくことに長けていた、といえるでしょう。

 

安土城建設では長秀の補佐をして

戦以外の場面でも、たびたび一益の名が登場しています。

例えば、信長と将軍・足利義昭の関係が悪化し、互いに起請文を提出してなんとか事を丸く収めようとしたことがありました。
この起請文に、一益が織田家の重臣の一人として署名しているのです。

また、天正四年(1576年)に始まった安土城建設では、総奉行・丹羽長秀の下で工事に携わっていました。
特に「蛇石じゃいし」という巨大な石を動かした件については、当時の織田家臣たちの連携が記録されています。

この石、信長の甥・津田信澄が最初に担当していたのですが、あまりにも大きすぎて、安土山の上へ運ぶことができなかったのです。

それを「一益・長秀・秀吉の三人で一万人の人足を指揮し、まる三日かけて動かした」という話が信長公記に書かれています。

安土城・天主

ちなみにこの蛇石、本能寺の変の後に安土城が焼失してから、現在に至るまで発見されていません。
推定約10m、約112トンという巨大な石のはずなのですが……。

ナントカ埋蔵金よりは現実味のある話ですし、盗掘に遭うようなものでもないので、いつか見つかるかもしれませんね。

 

第三次信長包囲網

一方、この天正四年という年は、信長の強敵が再び増えてしまった年でもありました。

丹波の波多野秀治が裏切り、これをきっかけとして織田家と一旦は和睦していた石山本願寺も動いています。
当然信長は激怒して兵を動かし、その一員として一益も参加しました。

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これに対し、越後の上杉謙信が織田家と対立する意向を見せます。
謙信も北陸で一向一揆衆に悩まされていましたが、信長という共通の敵ができたことで、一向一揆の親玉である本願寺と和睦したのでした。

いわゆる第三次信長包囲網です。

※第一次信長包囲網……浅井朝倉を中心に延暦寺や本願寺なども加わって織田家を包囲

※第二次信長包囲網……第一次のメンバーに足利義昭や武田信玄も積極参加して強固な包囲網となるも、信玄死亡により崩壊

今回の包囲網については、本願寺関連を主敵として見ると勝機がありました。

戦国期の本願寺は

・長島
・越前
・石山(本拠)

の三ヶ所で信長と対立しており、これに周囲の大名が加わった形です。

しかし、すでに長島勢は1574年に滅ぼして他ならぬ一益が伊勢長島を制圧しておりましたし、他の領地にも信長の家臣で動ける者たちがおりました。
一益のように遊撃部隊として戦地へ赴ける武将もおります。

 

第二次木津川口の戦い

一益は北陸から近畿まで、広い範囲の戦場に出向き、天正六年(1578年)11月には、再び九鬼嘉隆とタッグを組んで【第二次木津川口の戦い】に臨みました。

石山本願寺の水域を守る毛利水軍との戦いです。

実は、天正四年(1576年)7月、すでに【第一次木津川口の戦い】が行われ、九鬼嘉隆は毛利水軍相手に完敗しておりました。

毛利水軍の使った”焙烙火矢”という、手榴弾のような武器にこっぴどくやられてしまったのです。
陶器の中に火薬をつけて敵に投げるというもので、木造の舟ではひとたまりもありませんでした。

そこで信長は嘉隆と一益に新たな舟の建造を命じ、リベンジを挑ませたというわけです。
このときの舟が俗に”鉄甲船”と呼ばれているものですが、詳しいことはわかっていません。

信長公記では

「嘉隆に大船六艘、一益に白い大船を一艘仕立てさせた」

とだけ書かれています。

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毛利水軍は第二次木津川口海戦でも焙烙火矢を用いていたとされるため、嘉隆や一益の舟には、何らかの工夫がされていたことは間違いなさそうです。
いずれにせよ、このときは織田方の勝利となりました。

また、この戦と並行して起きていた荒木村重の謀反、それを始末するための有岡城の戦いにも、一益は参加しています。
ここでは攻め手の主力として戦う一方で、城方の将を説得して寝返らせるなど、様々な功績を上げています。

戦場におけるこういったある種の器用さは、
「進むも滝川、引くも滝川」
と評される所以でもあります。

信長の家臣たちはそれぞれ、一点特化タイプや文武両道タイプなど、さまざまな特長を持っていましたが、一益は特に柔軟なタイプといえるでしょう。

天正八年(1580年)には織田家の筆頭家老だった佐久間信盛が追放されたこともあり、彼がやっていた仕事が織田家諸将に割り振られます。

一益はそのうち、後北条氏をはじめとした関東・東北の大名たちとの連絡役を受け持つことになりました。
しかしそれが彼を窮地に追いやることに……。
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