こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【伊勢長島一揆の最終決戦】
をクリックお願いします。
この焼き討ちだけが取り沙汰され「信長はこの上なく残虐だ」と受け取る方も多いのですが、それ以前に深い因縁があったことを考えれば単に残虐と断じることも難しいのではないでしょうか。
逃げ出した信徒の中には、石山本願寺へ駆け込んだ者もおりました。つまり、中江・屋長島の一揆勢のうち、リーダー格だけの首を取っても、生き残った者たちが再び戦う可能性は決して低くありません。
中江・屋長島の者を助ければ、石山本願寺の兵力が増す可能性が高くなるのです。
信長を苦しめてきた伊勢長島の願証寺を攻略だ!超わかる信長公記114話
続きを見る
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
見せしめのため焼き討ちを徹底したのでは?
この先は私見ですが……。
おそらく信長が「長島一揆勢を焼き殺す」という判断をしたのは、比叡山焼き討ちの際の人的被害が、現在、語られているほど多くなかったからではないでしょうか。
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?
続きを見る
既に触れている通り、比叡山焼き討ちの直後こそ、世間は信長を恐れたものの、さほど間を置かずに一向宗徒が浅井方についたり、それこそ長島一揆勢によって織田家臣の複数名が討死しています。
「都の鎮守」として重要なイメージを持っていた比叡山という「箱」を焼いただけでは、イメージ戦略には足りない。ならば非道と謗られようと、人的被害を増やすしかない……という結論に至ったような気がしてなりません。
なんせ信長は、これまでの戦いでも、温情をかけた相手に再び裏切られたりして、手こずらされてきたのです。
今後の戦を有利にする、あるいは相手が怯えて自ら臣従を選んでくれれば、信長は真の天下人に近づきやすくなります。
既にこの時点で、信長は40歳。「人間五十年」の終盤にあたり、焦る気持ちもあったでしょう。
こうして信長は29日のうちに岐阜へ帰還し、長島一向一揆との戦いと、『信長公記』巻七はここで終わります。
あわせて読みたい関連記事は以下へ
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由
続きを見る
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
続きを見る
兄の裏切り、瞬時に見抜いて~戦国初心者にも超わかる信長公記26話
続きを見る
父のマムシ(道三)を殺した斎藤義龍~信長の美濃攻略を阻止した33年の生涯とは
続きを見る
信長の側近から戦国大名へ出世した佐々成政!最期は秀吉に潰された生涯53年とは
続きを見る
甲賀の戦国武将・和田惟政~信長と義昭の板挟みで苦悩した摂津三守護の生涯とは
続きを見る
信長の爺や・平手政秀が自害したのは息子と信長が不仲だったから?
続きを見る
信長を苦しめてきた伊勢長島の願証寺を攻略だ!超わかる信長公記114話
続きを見る
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?
続きを見る
信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)