絵・小久ヒロ

織田家 信長公記

越前一向一揆は信長自ら鎮圧! キッカケは旧朝倉家の内紛 信長公記125話

織田信長みずから出陣して鎮圧した合戦なのに、なぜか注目度の低い【越前一向一揆】。

文字通り

天正二年(1574年)に

越前(福井県)で起きた

一向宗(浄土真宗)による

一揆(民衆の武力行使)

です。

信長と一向一揆の対立と言えば、石山本願寺や伊勢長島での戦いが有名ですが、ここに来て突然の越前。

なんだかちょっとフシギに思いません?

地図で確認してみたらピンと来るかも知れません。

美濃と近江の北に位置する越前。

そうです、ここはもともと朝倉氏の領国であり、朝倉義景が信長に滅ぼされるまでは国として機能しておりました。

お隣加賀の影響で一揆と無縁とは言い切れませんでしたが、基本的には朝倉氏の領国→織田家の統治下に入ったエリアです。

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それがなぜ唐突に、越前一向一揆(1574~1575年)という状態になってしまったのか?

順を追って見て参りましょう。

 

越前一向一揆が起きるまでマトメ

まずは、朝倉氏の滅亡から一揆が起きるキッカケまで。

3つの重要ステップを押さえながら進めていきましょう。

①天正元年(1573年)8月

信長が一乗谷へ攻め入って朝倉氏を滅ぼす

朝倉義景を攻め滅ぼした時点で、信長は越前の統治を地元の武将に任せました。

旧朝倉家臣の前波吉継(=桂田長俊)です。

これが問題でした。

②天正2年(1574年)1月

前波吉継が横暴だとして、同じく旧朝倉家臣だった富田長繁が吉継を殺害。長繁はさらに魚住景固うおずみかげかたとその一族も滅ぼしてしまう

富田長繁は、前波と同じ旧朝倉家臣でした。

それだけに自分より権力を得た前波が気に入らず、民衆らに一揆を起こさせます。

そして他の旧朝倉家臣らと共謀して、前波を殺害したのですが、その流れで地元で信頼されていた魚住一族まで滅ぼしてしまいました。

これには他の朝倉家臣たちも猛反発!

③天正2年(1574年)5月

富田長繁に反感を抱いた勢力が加賀一向一揆の力を借り、長繁だけでなく朝倉残党までも排除。越前は、戦国大名のいない一向一揆の国となる

旧朝倉勢は、富田長繁を滅ぼすために加賀の一向宗僧侶・七里頼周しちりよりちかに協力を仰ぎました。

しかし越前入りした一向宗徒らは、地元の一揆を巻き込んで旧朝倉勢力を排除すると、自分たちで越前を治めるようになったのです。

これが越前一向一揆の本格的スタートとなりました。

 

伊勢長島の一揆や武田氏との対決が先だった

越前は、先の地図にもあったように、織田家の支配地である近江、美濃と国境を接するエリアです(ただし越前と美濃の国境は高い山脈で遮断されている)。

本来なら信長も黙っていられないところでしたが、しばらく放置しておりました。

理由はシンプル。

このころ織田家は、他に重要な戦いがあり、越前にかまっていられなかったのです。

具体的には、長島一向一揆武田勝頼との戦い(長篠の戦い)がありました。

長篠の戦いは、大切な同盟相手である徳川家康の領国経営にも関わっており、相手も武田氏ですから最も警戒しなければならない強敵です。

長島一向一揆にしても、尾張や美濃と非常に近く、彼らとの戦いでは大勢の親類や家臣も失っており、いち早く倒しておきたい敵でした。

この両者に比べ、越前は少しだけ重要度が低かったんですね。

むろん、だからと言ってその間何もしていなかったわけではありません。

例えば羽柴秀吉には船の用意をさせ、海路からも攻め込めるような準備を整えておりました。

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そして長島一向一揆が片付き、長篠の戦いで武田氏に大きな打撃を与え、朝廷や公家とのお付き合いも済ませた天正3年(1575年)の夏、ついに越前討伐へ動いたのです。

 

一揆の拠点は越前の国中に広がっていた

天正2年(1574年)8月12日、信長は岐阜を出発し、垂井に陣宿。翌日は小谷城、14日には敦賀へ進みました。

信長はここに腰を落ち着け、各方面に軍団を割り振ります。

というのも、越前まるごと一国が一揆状態にあり、攻略すべき拠点が非常に多かったのです。たとえば……。
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