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【安土城の築城】
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秀吉、一益、長秀らと人足一万人で引き上げる
蛇石とは、信長の甥・津田信澄(織田信勝の息子)が運んできた“とてつもなく大きな名石”のことです。
津田信澄は、あの明智光秀の娘が妻なのですが……それはさておき。
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蛇石があまりの大きさだったため、なかなか安土山の上に引き上げられず、難儀しておりました。
そこに羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の三人が協力し、人足1万人を動員・指揮して、三昼夜かけてなんとか引き上げたのだとか。
このとき、かつて信長が京都で将軍邸を造った際のやり方(本連載『信長公記58話』)を用いたので、現場は大変な賑わいになっていたといいます。
「昼夜、山も谷も動くかと思われるような」とまで書かれていますから、文字通りお祭り騒ぎだったのでしょう。
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ちなみにこの蛇石、現代における安土城の調査では発見されていないようです。
これほどかけて引き上げた石が消えてなくなるということも考えにくいですから、今後の進展に期待といったところですね。
信長は安土の普請が順調と判断したためか。京都にも屋敷を建てようと思いたちました。
安土のことは跡継ぎ・織田信忠に指示を与えて任せ、4月29日に上京。妙覚寺に滞在し、良さそうな土地を探します。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
富永 商太・絵
【参考】
国史大辞典
瓦WEB
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)