安土城炎上

安土城/wikipediaより引用

織田家

信長亡き後に安土城炎上!放火犯は信雄か 明智か それとも秀吉か?

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秀吉、わずか5kmの近隣に新しい城を築く

安土城を取り壊すにあたって秀吉は、秀次のために八幡山城(近江八幡城)を建てました。

この城、安土城からわずか5km程度しか離れていないのです。

もうね……地図で見たら一発です。

※左の赤い城が八幡山城で、右の黄色い城が安土城

皆まで言うなって感じですよね。

材料を再利用して新しく築城するより、安土城を土地ごと使った方が手間もお金もかかりません。

秀吉は、城下町に住んでいた人達もそっくりそのまま新城へ移住させました。

徳川家康への備えという意味もあったようですが、まぁ、言い訳でしょう。

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既に関白に任官された後ですから、名実共に天下人であります。

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にもかかわらず信長に怯えなくてはならないなんて耐えきれなかったんでしょうね。

ましてや安土城に、信長の孫である織田秀信がいるなんて余計にまずい。

「次の天下人に相応しい!」と担ぎ上げる連中が出てこないとも限りません。

安土城

「戦国一の出世頭」「人たらし」など明るいイメージで語られる秀吉ですが、その反面、ブチ切れたときの八つ当たりの激しさやコンプレックスも相当なものです。

それは別の建築物・聚楽第の一件を見てもわかるでしょう。

豊臣秀次事件の後、「秀次が住んでいたから」というだけの理由で、豪華な建物を徹底的に破壊したのでした。

聚楽第は、そもそも秀吉の京都滞在用でしたが、完成からわずか八年で姿を消しています(移築されたと伝わる部分もあります)。

それだけに安土城は、本能寺の変直後に炎上しようがしまいが、いずれ消される運命に変わりはなかったでしょう。

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 滋賀県お金がなくて発掘が中断中なんだとか

秀吉が取り壊しを決めた理由が何にせよ。

徹底的に壊したせいで、現在の発掘調査も難航しているようです。

最終的に安土城を破壊した羽柴秀吉の邸宅があった場所

滋賀県主導で20年ほど調査しておりましたが、財政難によって今のところ再開の目処が立っていないとか。

そもそも規模がデカすぎて、再開したとしてもあと50年~100年かかるらしいです。

長ーーーーーーい!!!

最近のニュースでは、発掘調査よりも、再建計画や天主の想像図が話題になることが多いですかね。

全国の信長ファンからお金を集めれば、資金面では何とかなりそうなので、どなたかクラウドファンディングの立ち上げでもやってくれませんかね。

信長だったら海外からもお金が集まりそうな気がします。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典岐阜県 滋賀県 福井県』(→amazon
安土城/wikipedia

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