天正12年(1584年)4月9日は信長のお気に入りだった戦国武将・森長可の命日です。
長可と書いて読み方は「ながよし」。
父は森可成(よしなり)で、信長の美少年小姓として知られる森蘭丸こと森成利の兄でもあります。
この森長可、戦国ファンにとっては強烈なエピソードでお馴染みの存在ですが、享年27という若さで亡くなるためか、フィクションでの出番が多いとは言えず、世間的な知名度はそう高くないかもしれません。
しかし、一度知れば間違いなく忘れられない武将の一人。
その生涯を振り返ってみましょう。

森長可/wikipediaより引用
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父も兄も戦死 13歳の若さで家督を継承す
森長可は永禄元年(1558年)生まれ。
父は前述の通り森可成で、母は妙向尼(みょうこうに)。

父の森可成(左)と母の妙向尼/wikipediaより引用
森可成は後に信長のために命を落とし、妙向尼は織田家を支えた林家の娘ですので、その息子である長可にせよ蘭丸にせよ、織田信長が気に入る血筋なわけですね。
二人の兄である森可隆は、元亀元年(1570年)の朝倉攻めのとき19歳の若さで討死してしまったため、長可が跡継ぎとして見なされていました。
そして父・可成が元亀元年(1570年)9月に討死した後、長可は森家の家督を継承。
当時の彼はまだ13歳ですので、いくら戦国時代の基準でも早いものでした。
この後、長可は暴力沙汰に関するとんでもない逸話を生み出していくのですが、彼の年齢と時代背景を考えれば致し方ないのかもしれません。
織田信忠のもとで20万石の大出世
父の跡を継いだ森長可もまた武勇を誇り、織田家の主要な合戦には参加。
例えば、以下のように重要な戦いばかりで、
しかも信長の後継者である織田信忠の下に度々つけられました。

織田信忠/wikipediaより引用
長可は信忠と一歳差ですので、信長が「次代の主将」として期待を抱いていたことが伝わってきます。
あるいは織田家のために殉死した可成の嫡子ですから、厚遇したくもなったでしょう。
特に武田征伐では先陣として働いたことが評価され、戦後の褒美として信濃の高井・水内・更科・埴科の四郡が与えられました。
石高にして20万石ほどになったといいますから、大身といって差し支えない待遇であり、さらには対上杉の最前線とも言える川中島への在城を命じられます。
また、長可とは別に金山・米田島の地は弟の蘭丸(当時は長定)に与えられました。
森家としての面目躍如といったところでしょう。

蘇鉄のエピソードで知られる森蘭丸を描いた『蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図』/wikipediaより引用
同年4月には甲斐での一揆征伐でも活躍しています。
このとき、他の武将たちが織田信忠のいる諏訪へ移ったり、安土へ帰ったりする中、長可は毎日山へ行って一揆勢から人質を取り、農民たちは村に帰すなどして、多岐にわたって活躍したとか。
彼の武勇が最も適切に用いられた時期かもしれませんね。
ちなみに武田征伐の際には、
「高遠城攻略から帰ってきた長可が血まみれだったので、信忠が心配して声をかけたら敵兵から受けた返り血だった」
なんて話が残されています。
そんな長可の愛用品と伝えられているのが『人間無骨』という槍です。
いかにも不気味な漢字の組み合わせですが、一体どんな意味なのか――皆さんは想像がつくでしょうか?
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