こんにちは、「れきしクン」こと長谷川ヨシテルです!
全国的にはマイナーだけど、ある地域ではメジャーな戦国武将をご紹介する当連載。
今回の主人公は、レペゼン岐阜県関市の『大島雲八(うんぱち・実名は大島光義)』さんです!
先に謝っておきます。
すみません!
この武将、2019年に初めて知りました!
知ったキッカケはAmazonでのサーフィン。
「何か面白い歴史小説ないかな〜」と泳いでいたら、オススメにいきなり現れたのがコチラの小説です。

『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義 (新潮文庫)』(→amazon)
「93歳で関ヶ原の戦い? 面白そう! だけど、フィクションだろうな〜」
そんなことを考えながらタイトルの『大島光義』で検索してみると……。
安土桃山時代から江戸時代初期の大名。
美濃国関藩初代藩主。
「いや! 実在するんか~い! あ、でも、93歳で関ヶ原ってのは、さすがにウソだな」
と、今度は生年月日をリサーチしてみたら……。
生誕:永正5年1月7日(1508年2月7日)
死没:慶長9年8月23日(1604年9月16日)
って……えーっと『1600年 - 1508年=92』なので……数え年で93歳!
いや、年齢もマジなんかい!(笑)
これを聞いて、好奇心が湧かないわけありません。
ということで先日、大島雲八さんの故郷である岐阜県関市に行ってきた次第でございます。
関市に残る大島雲八の甲冑がカッコよすぎ!
関市というと、やはり「刀剣」!
鎌倉時代から700年以上の歴史がある“刃物のまち”として超有名で、日本の刀剣生産地ベスト5を表す「五箇伝(ごかでん)」の一つにも数えられています。
中でも有名なのは「孫六兼元(まごろくかねもと)」と「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」でしょうか。
孫六兼元の刀は武田信玄や豊臣秀吉などが愛用したと言われ、現在では包丁へ技術を継承。日本産業の代表的な存在になっています。
一方、和泉守兼定も負けてはおりません。
ヤンチャ武将で知られる森長可(もりながよし/織田信長の重臣・森蘭丸の兄)が愛槍としていた十文字槍。
そこには人間無骨にんげんむこつ(骨が無いように斬れるという由来)の銘があったのですが、この槍も兼定作です。
さらには細川忠興(ほそかわただおき/明智光秀の娘婿・妻は細川ガラシャ)の歌仙兼定(かせんかねさだ)などを手掛けています。
この刀の命名は、細川忠興が「36人の家臣を手討ちにした」ことを「三十六歌仙」とかけて付けられてまして……おっかね~。

細川忠興/wikipediaより引用
和泉守兼定の系譜は会津にも続き、幕末には新選組の土方歳三が愛用したと言われています。
細川忠興の歌仙兼定や土方歳三の和泉守兼定は、大人気ゲームの『刀剣乱舞』にも登場。
関市は刀剣ファンからも注目を浴びる町となりました。
そんな関市の刀剣の歴史や仕組みを学べる「関鍛冶伝承館」に訪れた私ですが、お目当ては刀剣ではなく、とある甲冑!
実はこの資料館には、気になって仕方がない大島雲八さんの甲冑が展示されているのです。
それがコチラ!
浅葱(あさぎ)色の威糸(おどしいと)と大袖が非常に印象的ですよね!
兜にあしらわれた鍬形(くわがた)の前立てや、大島家の家紋である揚羽蝶(あげはちょう)もインパクト大です。
そして、甲冑の隣にはこんな紹介文がありました。
画像だとちょっと読みづらいので、以下に文字起こしさせていただきます。
【大嶋出羽守雲八着用の甲冑】
大嶋雲八光義は、永正五年正月関で生まれ、幼名を光吉、甚六、後に鵜八といった。幼時から武勇に優れ、殊に弓勢の威力は抜群であった。
永禄八年加治田城、堂洞城、関城などを攻めた織田信長が光義を召し抱え禄百貫文を与えた。姉川の戦にも武勲多く、江州坂本の合戦にはこの甲冑を着用して大いに奮戦した。
以後大嶋家は代々雲八を名乗り長篠の戦い、秀吉の朝鮮征伐、関ヶ原の戦でも活躍、旗本として当地や摂津の国で禄高一万八千石を賜った。
この甲冑は、大阪在住第十四代大嶋雲八氏寄贈のものである。
えーー、読んでるだけで楽しー(笑)。
しかも、織田信長の「美濃攻め」に関わる美濃国の国衆ってことは、大河ドラマ『麒麟がくる』にもリンクしていたってことでワクワクしてきますね。
ザックリとした経歴は紹介文の通りなのですが、以降、大島雲八さんの長〜〜い人生を追っていこうと思います。
生誕地は『麒麟がくる』の舞台と同じ
雲八さんの生まれは、先述したように永正5年(1508年)。
有名武将と比べてみると、織田信長は26歳年下の天文3年(1534年)生まれで、上杉謙信は22歳年下の享禄3年(1530年)生まれ。
有名武将の中でも年長に入る武田信玄でも13歳年下の大永元年(1521年)ですから、やはりかなりの年長組になります。

左から上杉謙信・織田信長・武田信玄/wikipediaより引用
年齢差をプロ野球界に置き換えて、考えてみましょうか。
私と同い年(33歳)のダルビッシュ有選手(大リーグ・カブス/1986年生まれ)が織田信長だとすると……。
上杉謙信は青木宣親選手(元大リーガー/現・ヤクルト)、武田信玄はイチローさん(元大リーガー)となり、雲八さんはヘルメットが入らないことでおなじみのオマリーさん(大リーグ出身の元阪神&ヤクルト)となるようです。
すいません、自分の趣味と年齢に置き換えてしまいました。当事者じゃないと、よく分かんない比較ですね(笑)。
言いたかったことは、有名武将よりもやや早くに生まれたということ。
幼い頃の境遇は過酷なものだったようです。
大島雲八さんの祖父・大島光氏(みつうじ)は美濃国の守護である土岐政房(ときまさふさ)の三奉行の1人だったものの、その跡を継いだ父・大島光宗(みつむね)は主君の御家騒動(山県の戦い)に巻き込まれ討ち死にしてしまいます。
この戦いは、土岐政房の跡目を2人の子どもが争ったもので、戦ったのは土岐頼武(よりたけ)と土岐頼芸(よりのり・よりあき・よりなり等)です。
来ましたね、『麒麟がくる』の主要キャラ!
ドラマでは後者の土岐頼芸を尾美としのりさんが演じ、本木雅弘さんの斎藤道三に“操り人形?”とされていた人物です。

『麒麟がくる』では尾美としのりさんが演じた土岐頼芸(絵・小久ヒロ)
家督をゲットするため斎藤道三の父(長井新左衛門尉)などを味方につけて兄に戦いを仕掛けますが、敗れています。
※後に斎藤道三などの援助を受けて再起して家督を継承するも、斎藤道三によって追放される
大島雲八さんの父は、この戦いで敗れた土岐頼芸の勢力に加担し、さらに討ち死にしたことで大島家の領地はなんと没収。
大島雲八さんはわずか10歳で合戦孤児となってしまったのです。
※父の死は1515年説もあるので、その説だとわずか8歳!
大島雲八さんが頼ったのは、多芸郡(現在の岐阜県養老町のほとんど&大垣市と海津市の一部)を領地とする親戚の大杉氏でした。
親戚ん家で暮らす大島雲八さんは、大島家を再興するためにある武芸の道に邁進します。
それが『弓』でした。
まるでマンガ! 弓エピソードが熱い
弓の腕前を実践で試す初めての機会が訪れたのは、永正17年(1520年)、13歳の時。
多芸郡をめぐる国衆同士の争いが起こった時に、敵ひとりを弓矢で見事に討ち取ったといいます。
武将の逸話としてはよくある類のものですが、弓で名を残した大島雲八さんのエピソードを見てみますと……。
大島雲八の逸話①
敵兵に鉄砲で狙われたが、飛距離に劣る弓で敵を射抜いた
大島雲八の逸話②
敵兵が木を盾にして隠れていたので、その木ごと敵の首を射抜いた。
それを見た別の敵兵が感動して、矢を抜かずに木と首を斬って大島雲八さんに届けた。
マンガじゃん!(笑)
まぁ、主に寛政年間(1789〜1801年)に編纂された『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に書かれていることなので、盛られている部分もあるのでしょう。
ただ、この史料は江戸幕府がオフィシャルでまとめたものですので、当時も“弓の名人”として認められていたのかもしれません。
初陣の翌年である大永元年(1521年)14歳の時、多芸郡に敵が押し寄せたので、兵2人を瞬く間に射倒すと、相手が恐れて撤退していった――なんて話も残されていますので、その腕前だけは間違いなかったのでしょう。
若くして弓のスペシャリストとなった大島雲八さん。
世間のウワサとなって仕官の話が舞い込み、大手に転職します。
その大手転職先の主君が、長井(隼人佐)道利でした。
長井道利は、あの斎藤道三の弟(子ども説も)と言われていて、烏峰城(後の金山城・岐阜県可児市)や大島雲八さんの故郷である関城の城主を務めたお方です。
父の討ち死にから孤児へ、親戚の国衆に育てられ、コツコツと弓の腕を磨き、実力を認められ、ついに美濃を治める斎藤道三の一族の家臣となったわけです。
“芸は身を助ける”とは、まさにこのこと!
しかし……大島雲八さんの人生はこのまま順風満帆とはいきません。
信長の脅威が迫ってきた!
永禄8年(1565年)、美濃制圧を狙っていた織田信長が、関城や近くの堂洞城や加治田城(どちらも岐阜県富加町)などの攻略に乗り出しました。
夏頃には、織田軍の木下秀吉(後の豊臣秀吉)に鵜沼城(岐阜県各務原市)へ攻め寄せられ、これは長井道利が迎撃、見事に退けています。
木下秀吉は大ピンチに陥ったようで、弟の木下秀長(後の豊臣秀長)が敵の側面を突いて兄の窮地を救っていなければ、討ち死にしていた可能性もあったといいます。
ところが、です。
加治田城の佐藤忠能が織田信長に内応。
鵜沼城も木下秀吉の調略によって織田軍に降ってしまいます。
このあたりの出来事を『信長公記』では1564年と記載しております。そうすると長井道利の秀吉軍撃退と前後してしまうのですが、1566年説もあったり、まぁ歴史のご愛嬌ということで……。
ともかく織田信長の脅威が迫ってきます。
すると堂洞城の岸信周と関城の長井道利は徹底抗戦! 8月28日には【堂洞合戦】が起きて堂洞城は落城し、岸信周は自害となりました。
大島雲八さんの主君・長井道利は、戦況打開のため稲葉山城(後の岐阜城)の斎藤龍興(たつおき/道三の孫で義龍の子)の援軍を受け、織田軍に反撃を仕掛けます。
まず、裏切り者である佐藤忠能の加治田城を攻撃しました。信長の侵攻に対して加治田城と関城と堂洞城は同盟を結んでいたのですが、佐藤忠能だけ信長方に降っていたのは前述の通り。
しかし、織田軍の援助もあって撃退されてしまい、逆に9月1日には長井道利の関城が包囲され、結局、開城へと追い込まれます。
加治田城と関城を巡って起きたこの戦いを【関・加治田合戦】と呼びます。
ちなみに、関城を包囲したの斎藤利治(としはる)でした。斎藤道三の子どもの1人です。
長井道利も道三の息子だとすると、兄弟による攻城戦だったということになりますね。
なお、斎藤利治は早くから織田信長の近習となり、美濃攻めに大いに貢献した人物で、その後も織田家に仕え、【本能寺の変】では織田信忠(信長の長男)と共に二条御所で討ち死にしています。
敵だった織田家の弓大将(弓足軽頭)に抜擢され
さて、今回の主人公の大島雲八さんは、織田信長による一連の「中濃攻略戦」において、【鵜沼城の攻防戦(vs秀吉)】や【関・加治田合戦】で主君の長井道利に従って織田軍と戦ったとされます。
しかし、自慢の弓で勝利に導くことは叶いません。
主君の長井道利は永禄10年(1567年)、稲葉山城を織田信長に落とされると、斎藤龍興と共に長良川をくだって伊勢国(三重県)へ敗走。
大島雲八さんも再び没落してしまうことに……は、なりませんでした。
これまた“芸は身を助ける”!
弓のプロとして有名だった大島雲八さんに、再びオファーがきます。
その相手というのが、そう!
織田信長です!
織田家臣となった大島雲八さんは、織田家の弓大将(弓足軽頭)に抜擢されることになりました。

織田信長/wikipediaより引用
そしてこれから歴史の表舞台へ登場していくわけですが、この時すでに御年60だったんですよ。
まさに大器晩成の“遅れてきたルーキー”なわけです。
しかも、当人はめちゃくちゃ負けず嫌い!
あるとき斎藤道三の元家臣で槍が得意だった同僚・武藤彌平兵衛が、大島雲八さんを次のように煽ってきました。
「あなたは弓で有名になり、私は槍で有名になりました。でも、弓は遠距離で戦ってるからズルいですよね。全然違うので、一緒にしないでいただきたい」
この煽りに対して、大島雲八さんは大乗っかり!
弓の名人であるにも関わらず槍の稽古を始め、それから3年間はなんと槍で戦ったそうです。
その間、槍働でもらった感状(合戦で大活躍した時にもらえる主君からの感謝状)の数は4通。武藤彌平兵衛は2通でした。
見事、意地っ張り合戦に勝利した大島雲八さんは武藤にこう告げます。
「弓と槍はどちらも選びがたいけども、弓は大勢の敵兵と戦う時に有利だからやっぱり弓にします」
なんというスカッとするお話なんでしょう。もう、フジテレビの『痛快TV スカッとジャパン』に応募したい!(笑)
姉川の合戦でも先駆け(このとき53歳)
さてさて、槍から弓に戻した大島雲八さんはその後も大活躍しました。
織田信長から新たに領地を与えられ、石高は100貫文。1貫が現在の10万円とも言われていますので、現在の価値に直すと年商は約1,000万円になりますね。
それ以前の石高は不明ですが、おそらくやグーンと給料が跳ね上がったことでしょう。
永禄2年(1559年)52歳の時にようやく誕生した長男(大島光成)も、その後スクスクと成長しており、家督を譲って老後も安心!
それで良かったはずなのですが、大島雲八さんは隠居するどころか「生涯現役」とばかりに、最前線で戦い続けます。
元亀元年(1570年)6月に起きた
織田信長&徳川家康
vs
浅井長政&朝倉義景
という【姉川の戦い】でも、大島雲八さんは先駆けをして、敵兵を数人射抜いたそうです。
さらに同年9月、「坂本の戦い」でも活躍を見せます。
この月、大島雲八さんの主君・織田信長は、石山本願寺との10年戦争に突入しました。
その始まりは「野田・福島の戦い」と呼ばれる合戦。
苦戦する織田信長に対して、その背後を突く形で浅井長政と朝倉義景が京都への進出を目論みます。
迎え撃つのは、織田家の宇佐山城(滋賀県大津市)の城兵たちでした。
両軍は坂本(滋賀県大津市/この翌年に明智光秀の「坂本城」がこの地に築かれる)で激突したのです!
この戦いは、宇佐山城を預かっていた森可成(森長可や森蘭丸の父)や織田信治(信長の弟)が討ち死にするなど、壮絶なものとなりました。
大活躍した大島雲八さんは、織田信長から次のように称え命じられたと言います。
「雲を穿つような働きだ。名を“雲八”と改めるように」
以降、大島雲八さんは通称を「雲八」と改名したそうで、御年62歳にして「大島雲八」の完成です!
ちなみに、小説『93歳の関ヶ原』では「うんや」とルビが振ってありましたが、史料や関市の公式サイトなどでは「うんぱち」と登場します。今回はコチラで統一させていただきました。
本能寺で信長敗死 そのとき雲八は……
織田信長からも認められた雲八さん。
その後も、要所要所の合戦で目覚ましい武功を挙げていきます。
雲八さんの武功
天正元年(1573年)
【小谷城の戦い】(浅井長政を滅亡させる)
→雲八さん、前線に進んで敵兵を射抜く
天正3年(1575年)
【長篠の戦い】(武田勝頼が敗北)
こうした活躍の結果、大島雲八さんは安土城の築城時、ある奉行に任命されました。
「矢窓切事奉行」です。
城内から弓矢や鉄砲を放つため、城壁にあけられた穴=狭間(さま)。これを造って管理する役職だったようです。
弓の達人の大島雲八さんにはもってこいのお仕事ですね!
しかし数年後、天下を揺るがす大事件が起きます。
天正10年(1582年)【本能寺の変】です。
事件当時、大島雲八さんがいた場所は安土城でした。
事件の一報を受けると、そのまま安土城にいては危険だと判断し、妻子を連れて城を脱出!

安土城図/wikipediaより引用
領地である美濃国を目指そうとすると、それまでの道のりには一揆や残党狩りなどが蜂起していました。
大島雲八さんの手には弓が一張のみ……もはや、万事休す……いえいえ、大島雲八さんには一張の弓で充分でしょう。
大勢の敵兵に矢を放って追い払い、無事に美濃国へ戻ることができたのです。おじいちゃん、強すぎ!
その後は一時的に、加治田城の斎藤利堯(これまた道三の子・信長の家臣となっていた)の配下に。
本能寺の変、山崎の戦い(秀吉が明智光秀に勝利)を経て、わずか1ヶ月で美濃国も大混乱に陥ります。
当初は岐阜城の織田信孝(信長の三男)に従っている者が多かったのですが、金山城の森長可は密かに羽柴秀吉と通じ、周辺のお城へ攻め込み始めました。
その流れで加治田城も攻撃されると、斎藤利堯はこれを撃退。
【加治田・兼山合戦】と呼ばれ、ハッキリしたことは不明ながら、大島雲八さんの弓勢が斎藤利堯の勝利に貢献したのかもしれません。
戦はまだまだ続きます。
翌天正11年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】では、123万石を有する北ノ庄城(福井県福井市)の丹羽長秀(元は信長の重臣)に属して出陣しました。

丹羽長秀/wikipediaより引用
ここでも武功を挙げて8,000石に加増されたといいます。
「1石」の価値は時代によってバラバラで諸説ありまくりですが、10万円前後とも言われていますので、大島雲八さんは76歳にして年商8億円?になったわけです。スゲーーーー!
老年からの快進撃はまだまだ止まりません。
それから2年後に丹羽長秀が死去すると、弓の腕を買われてまたまたオファーが訪れます。
その相手というのが、織田信長に続く天下人の羽柴秀吉でした! これまたスゴい!
こうして大島雲八さんは、秀吉の弓大将にも就任することとなったのです(秀吉に仕え始めた時期は諸説あり)。
弓の達人「百発百中の妙をあらわす」
その後、おそらく秀吉の命令で、秀吉の後継者候補だった甥の羽柴秀次(豊臣秀次)の家臣に転身しました。

豊臣秀次/wikipediaより引用
この秀次の家臣時代に大島雲八さんは、さらに天下に名を残す偉業を成し遂げています。
当時、天下人がチェンジした際、新たな天下人が誰であるかを内外にアピールするため、京都の法観寺に家紋を入れた旗を掲げる習わしがあったそうです。
天正19年(1591年)に羽柴鶴松(秀吉の実子)が夭逝したことを受けて、羽柴秀次が秀吉の養嗣子となり、後継者に本格的に決定。
そこで法観寺に旗を掲げた羽柴秀次は、パフォーマンスとして、境内にある有名な「八坂の塔」(五重塔)の5階の窓に矢を射込むことを大島雲八さんに命じました。

古写真にみえる五重塔(1868年~1895年の間に撮影)/photo by Nationaal Archief wikipediaより引用
高さは46mもある五重塔の最上階です。しかも小さな窓が的でした。そりゃ〜難しいものでしょう。
ドラマ『古畑任三郎』スペシャル回でイチローさんが犯人役を務めた時、殺した相手が持っていた自分のサインボールを隠すため、事件現場の駐車場の隅に強肩と精密なコントロールをもって遠投して投げ込んだくらい難しいことでしょう。
はい、例えが分かりづらいですね、すみません(笑)。
そんな難易度マックスの弓芸に挑戦した大島雲八さん。84歳という高齢であるにも関わらず、放った10本の矢を、なんと全て五重塔の内部に射込んだそうです。
御見事!
さすが『丹羽家譜伝』に「百発百中の妙をあらわす」と称された名人です!
ちなみに、現存している法観寺の五重塔は永享12年(1440年)に再建されたものなので、今建っている五重塔に大島雲八さんが矢を放ったということになります。
この逸話を知っているか知っていないかで、建物の見え方が全く変わってきますね~。
秀吉の傘下――齢91にして大名の仲間入り
その後は豊臣家の家臣として、
天正18年(1590年)【小田原征伐】
文禄元年(1592年)【文禄の役】(肥前名護屋城に在陣)
などなど、主要な合戦に弓隊を率いて参戦。
慶長3年(1598年)には石高が1万1,200石にアップします。
江戸時代以降は、一般的に1万石が「大名」とされますので、大島雲八さんは齢91にして大名の仲間入りをしたのですね。
91歳ですよ91……スーパーおじいちゃん過ぎる!
同年8月、秀吉が病死すると、残された大大名や奉行たちの間で政権争いが始まりました。
2年後の慶長5年(1600年)6月になると、徳川家康が上杉景勝を征伐するため大軍を率いて会津(福島県会津若松市)へ向かいます。

上杉景勝(左)と徳川家康/wikipediaより引用
いわゆる【会津征伐(上杉征伐)】です。
93歳となった大島雲八さんは、もちろんまだまだ現役バリバリ! 長男の大島光成(33歳)と共に出陣します。
ところが、徳川家康の軍勢の多くが下野国(栃木県)に集結した頃、畿内で毛利輝元を総大将とするアンチ家康派が挙兵しました。
家康は引き連れていた大名を集めて「小山評定」(最近では無かった説もあり)を開き「妻子を上方に残しているものは帰国して良い」と伝えます。
それに対して、上方に妻子が人質となっていた大島雲八さんは「妻子を顧みずに、軍勢に加わります」と言上。
そのまま東軍に加わったといいます。
東軍は、兵を取って返し、アンチ家康派である西軍と激突!
ご存知【関ヶ原の戦い】が勃発しました。
1713年(正徳3年)の『関原軍記大成』によると、東軍の最前線で戦った大名たちに付随した小身の部隊の中に「大島雲八」の名前が登場しています。
この記述を信じるならば、大島雲八さんは関ヶ原本戦に参戦していたということになります!
ちなみに、近衛龍春さんの小説では、大垣城(岐阜県大垣市)を攻めたと描かれています。
石田三成や大谷吉継、島津義弘など西軍が本陣として、関ヶ原の戦いの前日まで使用していたお城です。
ちなみに本連載「戸田氏鉄」の回で登場しています。
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戸田氏鉄の生涯|知られざる築城名人 家康~家綱4代に仕え 大垣城には銅像も
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大垣城の攻撃が始まったのは、関ヶ原本戦と同日9月15日のこと。攻め手の有名人には水野勝成(家康のいとこ・後に福山藩の初代藩主)や津軽為信(弘前藩の初代藩主)などがいました。
激しい攻撃を受けた大垣城は、翌16日には一部の城将(相良頼房、秋月種長、高橋元種)が水野勝成の説得を受けて東軍に寝返り。
18日には徹底抗戦を主張する西軍派の城将(垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛=石田三成の妹婿)を謀殺して降伏します。
それでも福原長堯は抵抗しますが、23日、徳川家康の使者の説得を受けてついに開城。
【大垣城の戦い】も終結しました。
詳しいことは不明ながら、大島雲八さんも大垣城に得意の矢を射込んでいたかもしれません。
関ヶ原で息子が西軍に……それでも家康から厚遇される
天下分け目の戦いで東軍に味方して活躍。
これで大島家も御家安泰だろう……と、いきたいところですが、またもや暗雲が立ち込めます。
なんと、大坂に残っていた次男(大島光政)と三男(大島光俊)が西軍についていてしまったのです!
真田家しかり、小勢力が生き残るためには必要な対応ですが、大変なのが事後処理。
真田家も東軍についた真田信之(真田昌幸の長男であり真田信繁の兄)の奔走によって、昌幸と信繁の命は助けられ、高野山への蟄居で済んでいますよね。

真田信之/wikipediaより引用
では、大島家の場合はどうか……?
結果は……セーフ! 大セーフ!!
大島雲八さんと長男(大島光成)の活躍が大いに評価され、息子2人が西軍に味方した罪が許されました。
それどころか、大島雲八さんはなぜか、徳川家康から直々に真壺(銘の無いルソン壷)と大鷹3羽をプレゼントされ、さらには領地もアップ! なんと1万8千石に加増されるのです。
ナニコノ、特別枠感!(笑)
ちなみに、1万1,200石だった頃の領地には、故郷とされる現在の関市(当時は武儀郡)は含まれておらず、この時になってようやく領地になります。
つまり、父の死によって失われた故郷を80年以上経って、オフィシャルに取り返すことに成功したのです。おめでとうございます!
他にも、徳川家康による大島雲八さんに対するレジェンド武将扱いがあります。
徳川家康の許に、南部利直(盛岡藩の初代藩主)から兄弟の鷹が2羽贈られてくると、大島雲八さんにプレゼント。
しかも、牛島(墨田区あたり)や葛西、府中などでの鷹狩りの許可を与え、さらにその後には江戸幕府の公式の御鷹場での鷹狩りも許されているのです。
また、領地に帰国の許可を得るために、江戸城の2代将軍の徳川秀忠と面会すると、衣服や黄金、馬などをプレゼントされています。
その帰り道には駿府城(静岡県静岡市)を訪れ、隠居していた大御所・徳川家康と面会すると、弓の技術や数多の戦場での武功(合計53回の合戦で41通の感状をもらっている!)などについて質問をされたといいます。
それだけでなく、かつて安土城の狭間の工事と管理を担当した大島雲八さんには、改築したての駿府城の狭間や石垣のチェックを頼み、何か不備があればアドバイスをして欲しいと伝えたそうです。
97で永眠 その後の大島家は?
そんな戦国のレジェンドにも、ついに終焉の時が近づいていました。
慶長9年(1604年)、大島雲八さんは病に侵されます。ウワサを聞いた徳川家康からはお見舞いの使者が訪れますが、8月23日に永眠。
享年は驚きの97でした。
大名となり関藩の初代藩主となった大島雲八さん。1万8千石の領地は4人の息子たちに分配されます。
【長男】大島光成 7,500石
【次男】大島光政 4,710石
【三男】大島光俊 3,250石
【四男】大島光朝 2,550石
全員が1万石を切ってしまう配分でしたので、大島家は残念ながら「大名」ではなくなってしまいました。
近衛龍春さんの小説では、背景に徳川家康の重臣・本多正純(父は本多正信・策略家や黒幕として描かれがち)の謀略があったと記されています。
【関ヶ原の戦い】の後に、本多正純から臼杵城(大分県臼杵市)5万石の領主に推薦されていたのに、大島雲八さんがこれを辞退。
本多正純の不興を買って、大島家は大名として存続できなくなり関藩は廃藩となり、「旗本」に格下げされてしまったと描かれています。
むろん、大名の大島雲八さんが亡くなって以降も、大島家は存続していきます!
長男・大島光吉の家系は孫(大島義豊)の代で断絶してしまったものの、次男(大島光政)や三男(大島光俊)は旗本として明治維新まで続きました。
ちょっとイレギュラーなのは、四男の大島光朝。
慶長19年(1614年)に始まった「大坂の陣」で豊臣秀頼方として参戦するのです。
戦後には当然没落するも、兄たちの助命嘆願があって助かり、鳥取藩の池田長吉(恒興の三男、輝政の弟)の家臣となって明治維新まで続いています。

天球丸の巻石垣で知られる鳥取城
また、大島雲八さんの孫で養子になった大島吉綱は、弓ではなく槍の名人で、加藤清正や前田利長などの下で各地を転戦、徳川頼房(家康の10男・和歌山藩の初代藩主)の槍術指南役を務め、【大島流槍術】の祖となっています。
やはり武芸に秀でた血が受け継がれたんでしょうかね。
現在、大島雲八さんの故郷である関市には、戒名の「大雲院殿道林日祝大居士」に由来する「大雲寺」が残されています。
しかも2つ!(笑)
関市の市街地にある大雲寺(伊勢町)は、慶長6年(1601年)に大島雲八さんが建立したと伝わり、菩提寺となっています。
大島雲八さんの肖像画や甲冑、書状などがあり、境内には歴代のお墓が建てられています。
伝来した甲冑は岐阜県博物館の特別展『関藩主大島雲八と現代甲冑展』(令和元年11月2日〜12月22日)に出展されていたようです。
観に行きたかった〜!
もう1つの大雲寺は、関市の市街地から少し離れた迫間にあり、天正14年(1586年)に大島雲八さんが建立したとも、その後に三男の大島光俊が建立したとも言われているお寺です。
こちらにも大島雲八さんをはじめとする大島家歴代のお墓が建てられています。
また、3年前の関市『第50回 刃物まつり』の記念事業では、刀剣と大島雲八さんのコラボ企画を実施!
関市の観光アプリ「雲揚羽KUMOAGEHA」(名前は大島雲八さんと家紋の揚羽蝶が由来かな!)を使用した謎解きコンテンツが誕生し、メインキャラクターとしてめちゃくちゃイケメンな大島雲八さんが登場しています。
あ、そう言えば!
京都市伏見区には「深草大島屋敷町」があり、大阪府豊中市には「大島町」という地名があります。
深草大島屋敷町は、大島雲八さんが屋敷を構えた(伏見城は秀吉の政庁となったので全国の大名は城下に屋敷を構えた)ことに由来し、大島町は石高が1万1,200石だった頃の「飛び地(本拠地とは離れた場所にある領地)」だったことに由来しているとも言われています。
97年の生涯を生き抜いた大島雲八さんを通して、まだまだ知らない面白い武将たちがたくさんいるんだな〜と改めて感じました。
皆さんも是非ゆかりの地を巡ってみてください!
それでは次回もご期待くださいませ!
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◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)



























