大島雲八

大島雲八の兜

織田家

93才まで最前線にいた驚異の戦国武将・大島雲八(光義)は弓で大出世を果たす

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大島雲八(大島光義)
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本能寺で信長敗死 そのとき雲八は……

織田信長からも認められた雲八さん。

その後も、要所要所の合戦で目覚ましい武功を挙げていきます。

雲八さんの武功

天正元年(1573年)
【小谷城の戦い】(浅井長政を滅亡させる)

→雲八さん、前線に進んで敵兵を射抜く

天正3年(1575年)
【長篠の戦い】(武田勝頼が敗北)

こうした活躍の結果、大島雲八さんは安土城の築城時、ある奉行に任命されました。

「矢窓切事奉行」です。

城内から弓矢や鉄砲を放つため、城壁にあけられた穴=狭間(さま)。これを造って管理する役職だったようです。

弓の達人の大島雲八さんにはもってこいのお仕事ですね!

狭間(松山城・大天守)

しかし数年後、天下を揺るがす大事件が起きます。

天正10年(1582年)【本能寺の変】です。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説

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事件当時、大島雲八さんがいた場所は安土城でした。

事件の一報を受けると、そのまま安土城にいては危険だと判断し、妻子を連れて城を脱出!

領地である美濃国を目指そうとすると、それまでの道のりには一揆や残党狩りなどが蜂起していました。

大島雲八さんの手には弓が一張のみ……もはや、万事休す……いえいえ、大島雲八さんには一張の弓で充分でしょう。

大勢の敵兵に矢を放って追い払い、無事に美濃国へ戻ることができたのです。おじいちゃん、強すぎ!

その後は一時的に、加治田城の斎藤利堯さいとうとしたか(これまた道三の子・信長の家臣となっていた)の配下に。本能寺の変、山崎の戦い(秀吉が明智光秀に勝利)を経て、わずか1ヶ月で美濃国も大混乱に陥ります。

当初は岐阜城の織田信孝(信長の三男)に従っている者が多かったのですが、金山城の森長可は密かに羽柴秀吉と通じ、周辺のお城へ攻め込み始めました。

その流れで加治田城も攻撃されると、斎藤利堯はこれを撃退。

【加治田・兼山合戦】と呼ばれ、ハッキリしたことは不明ながら、大島雲八さんの弓勢が斎藤利堯の勝利に貢献したのかもしれません。

戦はまだまだ続きます。

翌天正11年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】では、123万石を有する北ノ庄城(福井県福井市)の丹羽長秀(元は信長の重臣)に属して出陣しました。

ここでも武功を挙げて8,000石に加増されたといいます。

「1石」の価値は時代によってバラバラで諸説ありまくりですが、10万円前後とも言われていますので、大島雲八さんは76歳にして年商8億円?になったわけです。スゲーーーー!

賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が正面から激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切りか

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老年からの快進撃はまだまだ止まりません。

それから2年後に丹羽長秀が死去すると、弓の腕を買われてまたまたオファーが訪れます。

その相手というのが、織田信長に続く天下人の羽柴秀吉でした! これまたスゴい!

豊臣秀吉/wikipediaより引用

こうして大島雲八さんは、秀吉の弓大将にも就任することとなったのです(秀吉に仕え始めた時期は諸説あり)。

 

弓の達人「百発百中の妙をあらわす」

その後、おそらく秀吉の命令で、秀吉の後継者候補だった甥の羽柴秀次(豊臣秀次)の家臣に転身しました。

この秀次の家臣時代に大島雲八さんは、さらに天下に名を残す偉業を成し遂げています。

当時、天下人がチェンジした際、新たな天下人が誰であるかを内外にアピールするため、京都の法観寺に家紋を入れた旗を掲げる習わしがあったそうです。

天正19年(1591年)に羽柴鶴松(秀吉の実子)が夭逝したことを受けて、羽柴秀次が秀吉の養嗣子となり、後継者に本格的に決定。

そこで法観寺に旗を掲げた羽柴秀次は、パフォーマンスとして、境内にある有名な「八坂の塔」(五重塔)の5階の窓に矢を射込むことを大島雲八さんに命じました。

古写真にみえる五重塔(1868年~1895年の間に撮影)/photo by Nationaal Archief wikipediaより引用

高さは46mもある五重塔の最上階です。しかも小さな窓が的でした。そりゃ〜難しいものでしょう。

ドラマ『古畑任三郎』スペシャル回でイチローさんが犯人役を務めた時、殺した相手が持っていた自分のサインボールを隠すため、事件現場の駐車場の隅に強肩と精密なコントロールをもって遠投して投げ込んだくらい難しいことでしょう。

はい、例えが分かりづらいですね、すみません(笑)。

そんな難易度マックスの弓芸に挑戦した大島雲八さん。84歳という高齢であるにも関わらず、放った10本の矢を、なんと全て五重塔の内部に射込んだそうです。

御見事!

さすが『丹羽家譜伝』に「百発百中の妙をあらわす」と称された名人です!

ちなみに、現存している法観寺の五重塔は永享12年(1440年)に再建されたものなので、今建っている五重塔に大島雲八さんが矢を放ったということになります。

この逸話を知っているか知っていないかで、建物の見え方が全く変わってきますね~。

 

秀吉の傘下――齢91にして大名の仲間入り

その後は豊臣家の家臣として、

天正18年(1590年)【小田原征伐

文禄元年(1592年)【文禄の役】(肥前名護屋城に在陣)

などなど、主要な合戦に弓隊を率いて参戦。

慶長3年(1598年)には石高が1万1,200石にアップします。

江戸時代以降は、一般的に1万石が「大名」とされますので、大島雲八さんは齢91にして大名の仲間入りをしたのですね。

91歳ですよ91……スーパーおじいちゃん過ぎる!

同年8月、秀吉が病死すると、残された大大名や奉行たちの間で政権争いが始まりました。

2年後の慶長5年(1600年)6月になると、徳川家康上杉景勝を征伐するため大軍を率いて会津(福島県会津若松市)へ向かいます。

いわゆる【会津征伐(上杉征伐)】です。

小山評定と上杉征伐
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93歳となった大島雲八さんは、もちろんまだまだ現役バリバリ! 長男の大島光成(33歳)と共に出陣します。

ところが、徳川家康の軍勢の多くが下野国(栃木県)に集結した頃、畿内で毛利輝元を総大将とするアンチ家康派が挙兵しました。

家康は引き連れていた大名を集めて「小山評定」(最近では無かった説もあり)を開き「妻子を上方に残しているものは帰国して良い」と伝えます。

それに対して、上方に妻子が人質となっていた大島雲八さんは「妻子を顧みずに、軍勢に加わります」と言上。そのまま東軍に加わったといいます。

東軍は、兵を取って返し、アンチ家康派である西軍と激突!

ご存知【関ヶ原の戦い】が勃発しました。

1713年(正徳3年)の『関原軍記大成』によると、東軍の最前線で戦った大名たちに付随した小身の部隊の中に「大島雲八」の名前が登場しています。

この記述を信じるならば、大島雲八さんは関ヶ原本戦に参戦していたということになります!

ちなみに、近衛龍春さんの小説では、大垣城(岐阜県大垣市)を攻めたと描かれています。

石田三成大谷吉継島津義弘など西軍が本陣として、関ヶ原の戦いの前日まで使用していたお城です。ちなみに本連載「戸田氏鉄とだうじかね」の回で登場しています。

戸田氏鉄
家康~家綱の四代に仕えた戸田氏鉄は徳川譜代の戦国武将で築城名人

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大垣城(戸田氏鉄像と天守)

大垣城の攻撃が始まったのは、関ヶ原本戦と同日9月15日のこと。攻め手の有名人には水野勝成(家康のいとこ・後に福山藩の初代藩主)や津軽為信つがるためのぶ弘前ひろさき藩の初代藩主)などがいました。

激しい攻撃を受けた大垣城は、翌16日には一部の城将(相良頼房さがらよりふさ、秋月種長、高橋元種)が水野勝成の説得を受けて東軍に寝返り。

18日には徹底抗戦を主張する西軍派の城将(垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛=石田三成の妹婿)を謀殺して降伏します。

それでも福原長堯ふくはらながたかは抵抗しますが、23日、徳川家康の使者の説得を受けてついに開城。

【大垣城の戦い】も終結しました。

大垣城(水の手門跡と石垣)

詳しいことは不明ながら、大島雲八さんも大垣城に得意の矢を射込んでいたかもしれません。

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