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【大島雲八(大島光義)】
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ところが、徳川家康の軍勢の多くが下野国(栃木県)に集結した頃、畿内で毛利輝元を総大将とするアンチ家康派が挙兵しました。
家康は引き連れていた大名を集めて「小山評定」(最近では無かった説もあり)を開き「妻子を上方に残しているものは帰国して良い」と伝えます。
それに対して、上方に妻子が人質となっていた大島雲八さんは「妻子を顧みずに、軍勢に加わります」と言上。そのまま東軍に加わったといいます。
東軍は、兵を取って返し、アンチ家康派である西軍と激突!
ご存知【関ヶ原の戦い】が勃発しました。
1713年(正徳3年)の『関原軍記大成』によると、東軍の最前線で戦った大名たちに付随した小身の部隊の中に「大島雲八」の名前が登場しています。
この記述を信じるならば、大島雲八さんは関ヶ原本戦に参戦していたということになります!
ちなみに、近衛龍春さんの小説では、大垣城(岐阜県大垣市)を攻めたと描かれています。
石田三成や大谷吉継、島津義弘など西軍が本陣として、関ヶ原の戦いの前日まで使用していたお城です。ちなみに本連載「戸田氏鉄」の回で登場しています。
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大垣城の攻撃が始まったのは、関ヶ原本戦と同日9月15日のこと。攻め手の有名人には水野勝成(家康のいとこ・後に福山藩の初代藩主)や津軽為信(弘前藩の初代藩主)などがいました。
激しい攻撃を受けた大垣城は、翌16日には一部の城将(相良頼房、秋月種長、高橋元種)が水野勝成の説得を受けて東軍に寝返り。
18日には徹底抗戦を主張する西軍派の城将(垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛=石田三成の妹婿)を謀殺して降伏します。
それでも福原長堯は抵抗しますが、23日、徳川家康の使者の説得を受けてついに開城。【大垣城の戦い】も終結しました。
詳しいことは不明ながら、大島雲八さんも大垣城に得意の矢を射込んでいたかもしれません。
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関ヶ原で息子が西軍に……それでも家康から厚遇される
天下分け目の戦いで東軍に味方して活躍。これで大島家も御家安泰だろう……と、いきたいところですが、またもや暗雲が立ち込めます。
なんと、大坂に残っていた次男(大島光政)と三男(大島光俊)が西軍についていてしまったのです!
真田家しかり、小勢力が生き残るためには必要な対応ですが、大変なのが事後処理。
真田家も東軍についた真田信之(真田昌幸の長男であり真田信繁の兄)の奔走によって、昌幸と信繁の命は助けられ、高野山への蟄居で済んでいます。
では、大島家の場合はどうか……?
結果は……セーフ! 大セーフ!!
大島雲八さんと長男(大島光成)の活躍が大いに評価され、息子2人が西軍に味方した罪が許されました。
それどころか、大島雲八さんはなぜか、徳川家康から直々に真壺(銘の無いルソン壷)と大鷹3羽をプレゼントされ、さらには領地もアップ! なんと1万8千石に加増されるのです。
ナニコノ、特別枠感!(笑)
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ちなみに、1万1,200石だった頃の領地には、故郷とされる現在の関市(当時は武儀郡)は含まれておらず、この時になってようやく領地になります。
つまり、父の死によって失われた故郷を80年以上経って、オフィシャルに取り返すことに成功したのです。おめでとうございます!
他にも、徳川家康による大島雲八さんに対するレジェンド武将扱いがあります。
徳川家康の許に、南部利直(盛岡藩の初代藩主)から兄弟の鷹が2羽贈られてくると、大島雲八さんにプレゼント。
しかも、牛島(墨田区あたり)や葛西、府中などでの鷹狩りの許可を与え、さらにその後には江戸幕府の公式の御鷹場での鷹狩りも許されているのです。
また、領地に帰国の許可を得るために、江戸城の2代将軍の徳川秀忠と面会すると、衣服や黄金、馬などをプレゼントされています。
その帰り道には駿府城(静岡県静岡市)を訪れ、隠居していた大御所・徳川家康と面会すると、弓の技術や数多の戦場での武功(合計53回の合戦で41通の感状をもらっている!)などについて質問をされたといいます。
それだけでなく、かつて安土城の狭間の工事と管理を担当した大島雲八さんには、改築したての駿府城の狭間や石垣のチェックを頼み、何か不備があればアドバイスをして欲しいと伝えたそうです。
97で永眠 その後の大島家は?
そんな戦国のレジェンドにも、ついに終焉の時が近づいていました。
慶長9年(1604年)、大島雲八さんは病に侵されます。ウワサを聞いた徳川家康からはお見舞いの使者が訪れますが、8月23日に永眠。
享年は驚きの97でした。
大名となり関藩の初代藩主となった大島雲八さん。1万8千石の領地は4人の息子たちに分配されます。
【長男】大島光成 7,500石
【次男】大島光政 4,710石
【三男】大島光俊 3,250石
【四男】大島光朝 2,550石
全員が1万石を切ってしまう配分でしたので、大島家は残念ながら「大名」ではなくなってしまいました。
近衛龍春さんの小説では、背景に徳川家康の重臣・本多正純(父は本多正信・策略家や黒幕として描かれがち)の謀略があったと記されています。
【関ヶ原の戦い】の後に、本多正純から臼杵城(大分県臼杵市)5万石の領主に推薦されていたのに、大島雲八さんがこれを辞退。
本多正純の不興を買って、大島家は大名として存続できなくなり関藩は廃藩となり、「旗本」に格下げされてしまったと描かれています。
むろん、大名の大島雲八さんが亡くなって以降も、大島家は存続していきます!
長男・大島光吉の家系は孫(大島義豊)の代で断絶してしまったものの、次男(大島光政)や三男(大島光俊)は旗本として明治維新まで続きました。
ちょっとイレギュラーなのは、四男の大島光朝。
慶長19年(1614年)に始まった「大坂の陣」で豊臣秀頼方として参戦するのです。
戦後には当然没落するも、兄たちの助命嘆願があって助かり、鳥取藩の池田長吉(恒興の三男、輝政の弟)の家臣となって明治維新まで続いています。

天球丸の巻石垣で知られる鳥取城
また、大島雲八さんの孫で養子になった大島吉綱は、弓ではなく槍の名人で、加藤清正や前田利長などの下で各地を転戦、徳川頼房(家康の10男・和歌山藩の初代藩主)の槍術指南役を務め、【大島流槍術】の祖となっています。
やはり武芸に秀でた血が受け継がれたんでしょうかね。
現在、大島雲八さんの故郷である関市には、戒名の「大雲院殿道林日祝大居士」に由来する「大雲寺」が残されています。
しかも2つ!(笑)
関市の市街地にある大雲寺(伊勢町)は、慶長6年(1601年)に大島雲八さんが建立したと伝わり、菩提寺となっています。
大島雲八さんの肖像画や甲冑、書状などがあり、境内には歴代のお墓が建てられています。
伝来した甲冑は岐阜県博物館の特別展『関藩主大島雲八と現代甲冑展』(令和元年11月2日〜12月22日)に出展されていたようです。
観に行きたかった〜!
もう1つの大雲寺は、関市の市街地から少し離れた迫間にあり、天正14年(1586年)に大島雲八さんが建立したとも、その後に三男の大島光俊が建立したとも言われているお寺です。
こちらにも大島雲八さんをはじめとする大島家歴代のお墓が建てられています。
また、3年前の関市『第50回 刃物まつり』の記念事業では、刀剣と大島雲八さんのコラボ企画を実施!
関市の観光アプリ「雲揚羽KUMOAGEHA」(名前は大島雲八さんと家紋の揚羽蝶が由来かな!)を使用した謎解きコンテンツが誕生し、メインキャラクターとしてめちゃくちゃイケメンな大島雲八さんが登場しています。
あ、そう言えば!
京都市伏見区には「深草大島屋敷町」があり、大阪府豊中市には「大島町」という地名があります。
深草大島屋敷町は、大島雲八さんが屋敷を構えた(伏見城は秀吉の政庁となったので全国の大名は城下に屋敷を構えた)ことに由来し、大島町は石高が1万1,200石だった頃の「飛び地(本拠地とは離れた場所にある領地)」だったことに由来しているとも言われています。
97年の生涯を生き抜いた大島雲八さんを通して、まだまだ知らない面白い武将たちがたくさんいるんだな〜と改めて感じました。
皆さんも是非ゆかりの地を巡ってみてください!
それでは次回もご期待くださいませ!
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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)
◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
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『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)