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【池田輝政】
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姫路城完成と哀しい逸話
姫路城に移ると、早速大改修に取り掛かります。
現代も名城として知られる同城の大部分は、このとき輝政が施したものです。
慶長六年(1601年)から9年もの歳月をかけた大工事で、その甲斐あって、姫路城は「白鷺城」の美称を持つほどの名城になりましたが、実は悲しい逸話もあります。
輝政が行った姫路城の大改修において、桜井源兵衛という男が大工の棟梁を務めていました。
彼は根っからの仕事人間で、この大任にも積極的に打ち込み、ついに完成の日を迎えます。
しかし、彼はふと気付いてしまいます。
「天守が少し、傾いていないか?」
そして源兵衛は妻を伴い、天守を見せました。
すると妻も「とても立派ですが、少し傾いているのが残念ですね」と言ったそうです。
源兵衛は非常に大きな衝撃を受けました。
同じ大工に指摘されるならばともかく、素人の妻にわかってしまうほどならば、輝政や他の重臣・武士、果ては一般人にもわかるはず。
そんな大失態をこの大仕事でやらかしてしまったのですから、自責の念は一層強まったことでしょう。
「俺が計った寸法がよほど狂っていたに違いない」と、ノミをくわえて天守から飛び降りてしまったのだそうです。
実際に姫路城の東と西の石垣が沈んで傾いていたようですが、これは源兵衛のせいとは限らないのでは……と、個人的には思います。
なぜかといいますと、ちょうど姫路城の大修築が行われていた最中である慶長九年(1605年)に、慶長地震が起きているからです。
慶長地震による姫路周辺の被害は不明ながら、この地震は関東~四国まで非常に広い範囲で何らかの被害が起きています。
となると、工事中の姫路城が、一見問題ないレベルで傾いてしまい、それが完成後に発覚した……ということも十分あり得るのではないでしょうか。
「姫路宰相百万石」
輝政が姫路に入ったのと前後して、他の池田家の人々にも所領が与えられました。
輝政の弟・長吉 鳥取6万石
輝政次男・忠継 備前28万石
輝政三男・忠雄 淡路6万石
長吉はともかく、忠継・忠雄はまだ10歳にもならない子供。
二人の母親が督姫であり、彼らが家康の外孫であるということを考えても、かなりの依怙贔屓です。
輝政・長吉・忠継・忠雄の四人に与えられた領地を合計すると、92万石もの石高。
「輝政は西国における将軍同然」
「姫路宰相百万石」
なんて言われたそうですが、それも納得ですね。
家康としては、他の大名に池田家への反感を持たせ、結びつかないようにする……という狙いもあったのかもしれません。
他には松平の名乗りも許されています。
”宰相”は、官職の”参議”の異称です。
輝政は慶長十七年(1612年)に正四位下・参議になっていたため、姫路宰相と呼ばれました。
江戸時代には他にも参議になった大名が多々おり、領地と合わせて「◯◯宰相」と称されています。
家康からの信頼や期待を寄せられつつも、大名同士の付き合いとしては難しい状況になった輝政ですが、意外なほどトラブルは伝わっていません。
それは夫婦間や親子間でも同じで、江戸時代初期の難しい時代によくここまで波風を立てなかったものです。
慶長十六年(1611年)に家康と秀頼が二条城で会見した際、加藤清正や藤堂高虎などとともに同席しており、ここからも家康の信頼がうかがえます。
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家康自ら考案した薬を送ったほど
会見翌年の慶長十七年、中風を発症。
一度は回復しながら、慶長十八年(1613年)1月に再発して池田輝政は亡くなりました。
享年50。
中風は現代でいうところの脳卒中とその後遺症のことですから、再発もやむなしというところでしょう。
輝政が中風を患ったと聞いた家康は、自ら考案した烏犀円(うさいえん)という薬を送ったといいます。効果の程は不明ですが、家康は中風に効くと信じていたそうです。
それを送るということは、輝政にまだまだ働いてもらいたかったのでしょうね。
なんせその死は大坂城にいた豊臣家の人々にとっても衝撃的で「輝政がいる限りは、秀頼様の安泰も確保できたのに」と言われたとか。
輝政は豊臣家に対する恩を感じつつも、徳川家に睨まれないための振る舞いが非常にうまかったため、アテにされていたのでしょう。
あまり輝政のプライベートに関する逸話はないのですが、どうも日頃から寡黙な人だったようです。
そんな彼が唯一好きだったといわれているのがセリ。
現代では春の七草や郷土料理に用いられていますが、それ以外だとあまりお目にかからない野草ですね。
輝政は領地内のとあるところに生えるセリを上物とし、勝手に取ることを禁じていたのだそうです。
しかし、ある時とある者がこれを盗み、輝政に通報が届きました。
すると輝政は
「私の分に採らせたセリを強引に奪ったのならけしからん話だ。しかし、こっそり盗んだのならきっと私と同じセリ好きがやったのだろう。放っておけ」
とあっさり許したそうです。
つまり、独り占めしたくてセリ取りを禁じたのではなく、本当にそこのセリの味が気に入ったから取るのを禁じたのでしょう。
もしくはセリによく似たドクゼリとの混同を避けるために「ここなら確実に安全なセリが生えているから、取って食べても大丈夫」と保証したかったのでしょうか。
いずれにせよ、なぜそこまでセリが好きだったのかを知りたいところですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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姫路城公式サイト(→link)