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【池田輝政】
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秀吉から重宝され破格の待遇
予期せぬ形で家を継いだ池田輝政。
秀吉も「当主と嫡子が同時に討死」というところに責任を感じたものか。
小牧・長久手の戦いの後、善応院宛ての手紙では「輝政殿と長吉殿を亡きお二人の代わりに取り立てていきたいと思います」と語っています。
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秀吉にとって、池田家を味方につけるメリットは複数ありました。
一つは、前述のように池田家が織田家一門に準ずる立ち位置だったこと。
小牧・長久手で敵対していた織田信雄とは和解できた秀吉ですが、信孝については死に追いやっており、世間に「実力はあるかもしれんが、主筋の人間を押しのけたのはいただけない」と思われていても致し方ないところ。
不評を払拭するためには、それが気にならないほどの実績と後ろ盾が必要です。
もう一つは、秀吉の縁戚となって自分の政権を支えてもらいたいという狙いがあったことです。
広く知られている通り、秀吉は身一つから織田家で出世し、中国方面の責任者となっていた人物。
本人の能力は申し分ないにしても、武将から大名になるにあたって、親族や譜代の家臣が乏しいというのは非常に大きな弱点でした。
それを補うべく、福島正則や加藤清正など、見込みのある親族の少年たちや、石田三成・大谷吉継のように行く先々で見出した人物を取り立てていったわけです。
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しかし、それにも限界があります。
加えて秀吉の実子は幼くして世を去ってしまっており、後継者の懸念もじわじわと忍び寄っています。
となると、有力な大名と秀吉の親族との間に婚姻関係を結び、後ろ盾になってもらうのが最善の策です。
池田家の人々をみてみると、秀吉にとって非常に都合のいい存在でした。
日頃の態度も好ましく、また恒興の代から積み上げた世間の信頼も申し分ない。
加えて輝政を含め、一族の人間は健康に恵まれていて人数も多く、戦力としても縁戚候補としてもアテにできます。
こういった複数の理由から、輝政は秀吉から破格の厚遇を受けることになります。
家康の娘・督姫を継室に迎える
天正十三年(1585年)には信忠の城だった岐阜城を与えられ、10万石の大名に。
天正十五年(1587年)の九州征伐に従軍した後は羽柴氏の名乗りを許され、さらに翌十六年には豊臣姓まで与えられています。
さらにその2年後の天正十八年(1590年)、小田原征伐の後は東三河に四郡加増され、吉田城(豊橋市)に居城を移しました。
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この頃から豊臣秀次の与力のような扱いを受けており、文禄の役では秀次の下で東国警備の役目を果たしています。
慶長の役でも出兵せず、大船建造や兵糧の手配を担当しました。
輝政の姉妹である【若政所】が秀次の正室だったということも理由の一つかと思われます。
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朝鮮の役と直接関係ないところでは、伏見城などの普請にも携わりました。
他にこの間あった出来事としては、文禄三年(1594年)に徳川家康の娘・督姫を継室に迎えています。
もともと彼女は北条氏直に嫁いでいたのですが、小田原征伐の後、実家に送り返されていました。
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一説には「輝政の最初の正室だった中川清秀の娘(大義院)が、嫡男・利隆を生んだ後、産後の肥立ちが悪く実家に帰った」ため、徳川家と池田家の結び付きを強める意味もあって、秀吉が斡旋したのだとも。
その後も池田家と中川家との関係は悪くなさそうなので、大義院との離縁に裏はないと思われます。
また、輝政と督姫の間には忠継・忠雄らが生まれているため、こちらの関係も比較的良好だったのでしょう。
秀吉が輝政を重宝したのも、この人付き合いの良さが理由の一つかもしれません。
細川藤孝(幽斎)のように積極的に社交するタイプとはまた別種の、日頃の人当たりの良さで人脈が少しずつ広がっていったタイプでしょうか。
こういう人は本人が意識しなくとも、自然と他者を惹きつけますよね。
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こうして豊臣秀吉とも徳川家康とも、どうにかうまくやっていた池田輝政。
秀吉の死後は少々難しい立場になります。
慶長四年(1599年)に前田利家が亡くなった後、輝政が石田三成襲撃に加わったという説もあるのですが……記録によって襲撃に参加した武将の名が違うため、断定はできません。
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伝えられている輝政の日頃の振る舞いから考えると、この手の荒っぽい件にはあまり関わっていなさそうです。
もしかすると関ヶ原の戦いで東軍についたことから、逆説的に
「輝政も三成を嫌っていて、襲撃にも加わったに違いない」
と考えられたのかもしれません。
関ヶ原当日は毛利軍などの押さえを務めていました。その毛利軍らが動かなかったため、輝政は戦闘をしていません。
前哨戦のひとつ【岐阜城の戦い】では福島正則と共に戦功を挙げているのですが、このとき城にいたのが西軍・織田秀信(三法師)だったというのがなんとも……。
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岐阜城は輝政の居城だったこともありますし、いろいろと因果がありますね。
この戦功によって、輝政は播磨に52万石を与えられました。
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