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【平手政秀】
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朝廷への使いや斎藤家との縁談もまとめ
その後、信長が生まれてからの政秀は、傅役(もりやく・跡継ぎを育てる人)兼二番家老となり、信長の元服や初陣にも付き従っています。
それだけではありません。
並行して、織田家の重要な仕事も請け負っておりました。
例えば、信秀が朝廷へ内裏の修繕費用を献上したときや、清須織田氏と講和をするときなど、主に外交で「ここ一番」というときに仕事を任されていたのです。
有名なところだと、斎藤道三の娘・濃姫を信長の正室に貰い受けるときの交渉も、政秀が担当しておりました。
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信秀・信長にとって、政秀はまさに得難い家臣だったといえるでしょう。
なんせ『信長公記』でも「政秀は風雅で心遣いができる人」と評されています。
日頃は温厚な知識人という感じの人だったと思われます。
そういう人が若き日の信長の家老となると、気苦労が絶えなかっただろう……というのは、なんとなく想像がつきますよね。
これまた信長公記に書かれていますが、いつの頃からか、政秀の長男・五郎右衛門と信長が不和になったために、さらに胃痛の種が増えてしまいました。
息子と信長の不和から板挟みになり……
不和の原因は、五郎右衛門が持っていた名馬でした。
名馬マニアとして知られる信長がこれを所望したところから悲劇が始まります。
五郎右衛門が「私は武士ですので、馬がなければ働けません。お許しください」とキッパリ断ったのです。
平手家は決して馬を買い換えられないほどの家ではありませんから、その馬がよほど優れていたのでしょう。信長が直接欲しがるくらいですしね。
これをきっかけに五郎右衛門と信長の関係が悪化し、政秀は板挟み状態になったとされています。
また、信秀の葬儀での信長の言動があまりにも常軌を逸していたこと、その後も行状が改まらないことなども、政秀を悩ませました。
そしてついに、天文二十二年閏1月13日(1553年2月25日)、自ら命を絶ってしまったのです。
信秀が亡くなってから、もうすぐ一年という頃合いでした。
「政秀のおかげだ! 馬鹿にするな!」
信長は政秀の死をいたく悲しみました。
そして、その名を冠した「政秀寺(せいしゅうじ)」を春日井郡小木村(小牧市)に建て、菩提を弔います。
住職は、信長の師の一人であり、政秀に後事を託された沢彦宗恩でした。
真偽の程は不明ながら、その後もこんなエピソードが残っています。
◆信長は鷹狩に行くたびに、政秀への供え物として肉を投げ上げた
◆後年、他の家臣が
『殿がこんなに偉大になったのに、平手殿は自刃するなんて早まったことをしましたね』
と政秀を揶揄すると、信長が激怒。
『俺がここまで来れたのは政秀のおかげだ! 秀を馬鹿にするな!』
残念ながら、このエピソードが本物かどうかは不明です。
しかし、信長が政秀を懐かしむような言動をしていたからこそ、こういった話が残ったのでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書)』(→amazon)