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【織田信忠の生涯】
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重臣招いて自ら茶会を開く
別居後も織田信忠は父に従順であり続けました。
政務や戦だけでなく、家臣たちとの付き合い方にも見られます。
天正五年(1577年)の年末、信忠は名品「初花肩衝」など11種の茶道具を信長から譲り受けました。
信長から「これらを使って茶会を開くように」と言いつけられたとされています。

初花肩衝/wikipediaより引用
年が明けて天正六年(1578年)の元日には信長が安土城で朝の茶会を開き、信忠と共に重臣たちが招待されました。
招待客は諸説ありますが、信忠の他に
武井夕庵(信長の右筆)
林秀貞(織田家の筆頭家老)
滝川一益
細川藤孝
明智光秀
羽柴秀吉
丹羽長秀
など錚々たるメンツが参加。ほとんど織田軍オールスターという感じですね。
4日には、信長お気に入りの小姓・万見重元邸にて、信忠が亭主となって茶会を開催しています。
この後も信忠はたびたび茶会を開き、自ら手前を披露することもあったとか。
信憑性は少し低いものの「千利休に数寄屋の調度について教えを請うた」という話もあります。
時計の針を少し進めて天正6年(1578年)1月29日のことです。
信長の御弓衆・福田与一が安土で火事を起こしてしまいました。
信長は「家の中のことは妻が取り仕切り、夫の留守を守るべき」という考え方で、以前から「安土に移った者は早々に妻子を呼び寄せるべし」と命じていました。
ところが与一の火事が起きたことにより『妻が家にいなかったのか』と推察。
家臣宅を調べさせたところ120人ほどが安土に妻子を呼びよせてないことが発覚します。
城建造中の安土で火事を何度も起こされてはたまりません。
そこで信長は信忠に「岐阜から安土に妻子を移していない家は放火して、強制的に移らせろ」と命じました。
ずいぶんと荒っぽい手段ですが、こうでもしなければダラダラとして進まないからでしょう。
また、この年5月のキリスト教宣教師の手紙で、信忠がキリシタンに好意的な反応をし、修道院や教会の建設用地を与えたという話があります。
信忠の信仰について詳細は不明ながら、この辺の感覚も信長に準じていたのでしょう。
鷹の子を四羽育て信長に献上
戦国武将も人間であるからには戦ばかりしているわけではありません。
むしろ日常生活や内政に費やしている時間のほうが多い。内容こそ違えど、衣食住や趣味などについては、現代人と共通する面がなくもありません。
信長は鷹狩や相撲が有名ですかね。『信長公記』にその表記が何度も出てきます。
一方の織田信忠については、これぞ!という趣味が伝わっていません。
ただし、いくつか当人の好みが垣間見えてくる話はあります。
天正五年(1577年)秋:イベント見物
謀反を起こした松永久秀討伐のため奈良へ出陣した信忠。
久秀の本拠である信貴山城を包囲する前に奈良の猿沢池を見物したとされます。
また同じ年に尾張の津島祭に出かけていました。
一見共通点が見えにくいですが、「現地の名物を見に行くことや、地元民と接触する機会を重視していた」と考えると、似通った意味があるのかもしれません。
天正六年(1578年)7月:鷹の子を四羽育て上げて信長に献上
『信長公記』に載っている話です。
上述の通り、この頃には信長から家督が譲られていて、岐阜城の主は信忠でした。
いつ頃から手掛けたのかは不明ながら、岐阜城あるいは近辺のどこかで鷹の子を育て、それを鷹狩好きの信長に贈った……という話ですね。

人の手で鷹の子を育てるのは非常に難しいとされ、四羽ともなれば多大な労力だったことは間違いないでしょう。
信長のご機嫌伺いという目的であれば別のものでよかったわけで、信忠もかなりの鷹好きだったのでは?
奥羽の大名から鷹が贈られるという話はよくありますが、自分の手元で育てたという人や話は珍しいです。他に生き物に関する記述がないので、あくまで可能性の話ですが。
なお、信長は一羽だけ受け取り、残りは信忠に返したそうです。
信長のもとへ鷹を届けた鷹匠二人には、「育てるのは大変だったろ」として褒美が与えられたとか。
「苦労して育てたのだから、信忠の手元で多く使うのがいい」と考えたのかもしれません。信長の親らしい一面も見える話になりそうです。
・音楽や能が好き?
信忠には、いくつか芸術にまつわる話が伝わっています。
側近の笛を聞いて「師匠は誰か?」と訪ねたことがあったとか、能に熱中しすぎて信長に怒られ、道具を取り上げられてしまったとか。
能道具を取り上げられたことに対して怒ったとか陰で愚痴ったという話もないので、信忠は徹頭徹尾、父に従順だったと思われます。
反骨心が強い人だと、些細なきっかけで仲がこじれたりしますしね……と、和む話はこの辺にして、血なまぐさい話へ戻りましょう。
徐々に「織田の総大将」へ
こうして少しずつ権力を移乗されていった織田信忠。
天正五年(1576年)からは軍事分野でも、その動きが現れてきます。
同年2月の雑賀攻めではまだ信長が総大将で、信忠は副将のような立ち位置から信雄などの一門を率いていました。
そして前述の松永久秀討伐から、いよいよ信忠は総大将として出陣するようになるのです。
翌天正六年(1577年)4月には、石山本願寺攻めのため、一門や滝川一益・明智光秀・丹羽長秀などの重臣たちを率いて信忠が出陣。
このときは本願寺側が打って出なかったため、周囲の田畑を薙ぎ払って終わっています。
同じく4月、信長が右大臣を辞任して「嫡男の信忠に高い官職を譲りたい」と朝廷へ申し出ていました。
対外的に「次の当主は信忠であり、これはもう揺らがない」と示す意味があったことがうかがえますね。
また、中国地方の毛利氏攻略を進めていた羽柴秀吉が、別所氏に裏切られて挟撃されると、信忠が5月に出陣し、播磨にとどまりながら8月までに別所氏の城をいくつか落としています。
活躍しているのは、むろん信忠だけでなく、各方面軍の活躍で、織田軍は四方八方へ勢力圏を広げていきました。
しかし同年10月、織田家にピンチが訪れます。
有岡城の荒木村重が謀反を起こしたのです。
西へ行くにも南へ行くにも、京都から見て通り道になる有岡城は摂津エリアの要衝であり、当然ながら放置はできません。
信長も危機感を抱いたのでしょう。11月に摂津へ出陣して信忠と合流しています。
このときも実質的な総大将は信忠で、信長はあまり指示を出していません。
天正八年(1580年)8月には、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就が追放され、織田家は構造改革を実行。
信長の理不尽な対応としてよく例に出されますが、
「俺が倅に家を譲って模範を示したというのに、老臣どもがそれに倣わないのはけしからん」
と考えたのかもしれません。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
特にこの三人は「能力がないではない。されど、他の人と比べて大きな功績もない」という点が共通しており、「働かないヤツは重臣だって解雇だぜ」という見せしめにも見えてきます。
まぁ、見せしめだとしたら、信長の言葉が足りなさ過ぎるような気もします。
何はともあれ、追放された重臣たちの与力(陪臣)や領地が信忠の支配下に入り、一気にその影響力は増してゆきました。
信玄の娘・松姫との婚約
ここまででお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
織田信忠の生涯を振り返っているのに「結婚」とか「女性」の話が殆ど出てこないことに……。
戦国大名、しかも家督を継いだ者が妻を迎えない=子供を作らないというのは言語道断。
そこにはもちろん(?)、理由がありました。
時を遡って、信長が美濃を取ったばかり(永禄十年=1567年)の頃の話です。
当時、敵に囲まれた織田家に余力はなく、領地を接する上に信玄がまだまだ現役な武田家と事を構えるのは得策ではありませんでした。
そのため信長は一度頭を下げて、信玄へ同盟をもちかけたのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
このとき信長の姪っ子を養女として勝頼に嫁がせたのですが、彼女は子供を産んですぐに亡くなってしまいました。
そこでもう一度婚姻を結ぶために選ばれたのが、信玄の六女である松姫だったのです。
時勢が落ち着かないこと、当人たちがまだ幼いことにより、松姫はすぐには嫁いで来ませんでした。
甲斐では「信忠夫人」として扱われ、別の屋敷で育てられていたといいます。
しかし……。
結婚適齢期に入る頃には、時勢の変化によって織田と武田が手切れとなり、婚約は解消へ。
松姫はその後も他家へ嫁いでいないため、異母兄である勝頼がどのような心づもりでいたのかはよくわかりません。
一方で信忠も正室は迎えておらず、これまた理由がよくわからないところです。
松姫のことが心残りだったのか、それともどこか適切な家の姫を見繕っていたのか。
信長も正室との間には子供がいないとされているため、「正室なんていなくても問題ないでしょ?」なんて考えていた可能性もなくはないですかね。
一説には「その後も信忠と松姫は文通していた」ともされていますが、残念ながら物証は残っていません。
松姫が処分してしまったのか、それともにこの話自体が後年の創作なのかは判断がつきづらく……松姫については、また後ほど考察しましょう。
甲州征伐
織田信忠が最も活躍した合戦は何?
代表的な戦いは?
その質問に対する答えは、やはり天正十年(1582年)の【甲州征伐】が相応しいでしょう。
武田家では、敵方の織田に内応する家臣が現れていて機は熟した状態。
同年2月9日に武田領への侵攻を命令すると同時に徳川や後北条にも協力を求めました。
織田家では金森長近を飛騨方面から、伊那方面から信忠を先行させ、その後には家老役の河尻秀隆はじめ、滝川一益や森長可なども従いました。

河尻秀隆/wikipediaより引用
出発は2月12日。
順調に武田領へ進んだところ、大島城(現・長野県下伊那郡)ではろくな戦にならず占拠に成功し、信長公記によれば近隣の農民も織田軍を歓迎したといいます。
信長はこの間も信忠の進軍状況を知るべく、使者を出して調べさせていました。
すると「信忠卿は大島におられ、特段問題ないようです」との報告。信長としては苦戦しているようであれば自分も急いで出陣するつもりだったのでしょうか。
当初、信長は自分で後詰役になり、信忠と合流してから決着をつけるつもりでいたようです。
しかし戦況から「急ぐべき」と判断した信忠は、独断で侵攻を進めていきました。内応も相次ぎ、戦闘すらあまり起こらなかったためでしょうか。
重臣で、信玄の甥でもある穴山梅雪が寝返ったほどですから、当時の武田領の空気や推して知るべし。信忠が
「父上の返事を待っていたら、武田を滅ぼす好機を取り逃してしまうかもしれない」
と判断しても不思議ではありません。
その中で唯一大きな戦となったのが、武田勝頼の異母弟・仁科盛信の守る高遠城です。

仁科盛信/wikipediaより引用
彗星の観測や浅間山噴火等、当時「不吉」とみなされていた自然現象が続いて起こる中で、信忠は3月1日に高遠城の手前に到着しました。
周囲の地形等を調べさせた上で、信忠が高遠城総攻めを始めたのは3月2日早朝。
かなりスピーディーに事を進めたことがわかります。
保科正直という武田方の武将が城から内応しようとしたところ、信忠まで伝わる前に織田軍の攻撃が始まったとか。正直はなんとか脱出に成功し、後々徳川家に仕えています。
信忠はなぜか高遠城攻略を異様なほど急いでおり、これまでにない“殺る気”をギラギラさせていました。
なんでも「自ら武器を手にして、兵たちと競うように塀の上に登り、号令した」そうで。
大将として危険すぎる行動ですが、織田軍の士気は格段に上がりました。
殿様が敵のど真ん中に突っ込んでいくのを小姓や馬廻りの者たちが見過ごせるわけがないですよね。
なぜ信忠が自らの身を危険にさらしてまで、高遠城攻略を急いだのかは不明です。
父が来る前に華々しい功績を上げておきたかったのか、何か別の理由があったのか……。
そこで影響したかもしれないのが、前述の松姫です。
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