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【織田信忠】
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岩村城の陥落
岩村城攻めは予想以上に時間がかかり、天正三年(1575年)11月に攻め落としたと考えられています。
佐久間信盛が8月から越前攻めに加わり、河尻秀隆が岩村城攻めに参加したので、どこかのタイミングで交代させたようです。
信長は、まだ岩村城が落ちていないこと、武田勝頼が自ら岩村城への援軍に向かっていること知り、11月15日に越前から岐阜への帰り、援軍に向かおうとしました。
実はその数日前、岩村城を包囲していた織田軍は、武田軍から夜討ちを受けていました。
城方の武田軍も夜討ちの隊と一緒に織田軍を挟撃しようとしており、もしも成功して大事になっていれば信忠も危うかったかも……と思いきや、このときの信忠が勇猛でした。
自ら先駆けして武田軍の合流を防いでいたのです。
大将としては少々迂闊な行動ですが、一方で将兵たちには「勇猛な跡継ぎ」という印象を与え、士気を高める効果があったでしょう。信長にも似たような話がいくつか残されていますね。
結局、武田の夜討ち隊は織田軍が蹴散らし、籠城側も降参を申し出るまでになりました。
そして、岩村城、陥落――。
11月21日に城将・秋山虎繁らを捕縛し、岐阜へ送って長良川で処刑。
謀反のきっかけとなった遠山一族が最後の抵抗をするものの、最終的には織田軍に敗れ、岩村城は織田家のものになっています。
戦後、信忠は岩村城を河尻秀隆に任せ、11月24日に岐阜へ戻ると、この功績により「出羽介」「秋田城介」に任官。
出羽介は出羽の国司のうち二番目にエライ人で、秋田城介は出羽の秋田城を任地とする官職です。
秋田城は朝廷にとって北方防衛の拠点とされていたところでもありました。
この時点で信忠が出羽や秋田城へ行くことはありませんが、これらの役職から信長や朝廷の意志が垣間見えるかもしれません。
あくまで私見ですが、信長は
「全国を統一した後は、信忠の息子の誰かを北の要とし、出羽介と秋田城介を世襲させていく」
という算段をつけていたのではないでしょうか。
まだ嫡子の三法師(後の織田秀信)も生まれていませんが、順調に行けば信忠も何人かの息子に恵まれたはず。
信長は、信忠の長男に織田家の家督を継がせ、次男以下のうち一人を秋田に置き、その子孫を北方の要として根付かせていこうとしたのではないでしょうか。
なお、関東・東北の大名は早いうちから織田家へ手紙や贈り物をしてきている家も多く、近畿・北陸・西国に比べて武力は必要なかったと思われます。
合戦だけでなく、信忠に娘が生まれれば、政略結婚で結び付きを強めることもできますしね。
ともかく信長は、岩村城の戦いで「大将として初めて単独行動した」長男の働きに、合格点を与えたはず。
それが冒頭でも触れた織田家の家督継承からもうかがえます。
信長から託された城やお宝
前述のように、信長が家督を譲ったのは天正3年(1575年)11月のこと。
信長はこのとき42歳。
当時の平均寿命からすると、いつ死んでもおかしくない状況です。
そこで、万が一自分が亡くなっても織田家の体制に揺るぎがないよう、跡取りをキッチリさせておきたかったのでしょう。
振り返ってみれば、自身が弟・織田信勝との家督争いで最も苦労してますからね。
このとき18歳の嫡男・信忠につけたおまけがスゴイ。
本拠だった岐阜城はもちろん、因縁の地・美濃も織田家代々の尾張もまとめて任せ、さらには家宝の品々もまとめてポーンと渡してしまったのです。
お宝の中には、日本三大敵討ちの一つ【曽我兄弟の仇討ち】で有名な曽我五郎由来の太刀【星切】まであったそうです。気前がいいなぁ。
ちなみに信長自身は、まだ城どころか家もまばらな安土に移り、茶道具だけを持って家臣の家に間借りする身軽さでした。
「身軽さ」というか、あまりに自由すぎ。
とツッコミたくなりますが、これが信長最大の長所であり、後に悲劇を招く引き金にもなりますね。
ただし、信長が実権を手放したわけではありません。
あくまで跡継ぎの表明だったのでしょう。
家臣たちにもその意志はよく伝わっていたようで、手紙の中で信長を「上様」、信忠を「殿様」と書くようになっていきます。
「信長と比べて暗愚だった」なんて言われることもある信忠ですが、そもそも比較対象がおかしい話でしょう。
天正七年(1579年)の松平信康切腹事件について「信康が信忠より優秀だったため、信長が始末させた」という説が、かつては広く信じられていた影響もあるのかもしれません。
重臣招いて自ら茶会を開く
別居後も織田信忠は父に従順であり続けました。
政務や戦だけでなく、家臣たちとの付き合い方にも見られます。
天正五年(1577年)の年末、信忠は名品「初花肩衝」など11種の茶道具を信長から譲り受けました。
信長から「これらを使って茶会を開くように」と言いつけられたとされています。
年が明けて天正六年(1578年)の元日には信長が安土城で朝の茶会を開き、信忠と共に重臣たちが招待されました。
招待客は諸説ありますが、信忠の他に
など錚々たるメンツが参加。ほとんど織田軍オールスターという感じですね。
4日には、信長お気に入りの小姓・万見重元邸にて、信忠が亭主となって茶会を開催しています。
この後も信忠はたびたび茶会を開き、自ら手前を披露することもあったとか。
信憑性は少し低いものの「千利休に数寄屋の調度について教えを請うた」という話もあります。
時計の針を少し進めて天正6年(1578年)1月29日のことです。
信長の御弓衆・福田与一が安土で火事を起こしてしまいました。
信長は「家の中のことは妻が取り仕切り、夫の留守を守るべき」という考え方で、以前から「安土に移った者は早々に妻子を呼び寄せるべし」と命じていました。
ところが与一の火事が起きたことにより『妻が家にいなかったのか』と推察。
家臣宅を調べさせたところ120人ほどが安土に妻子を呼びよせてないことが発覚します。
城建造中の安土で火事を何度も起こされてはたまりません。
そこで信長は信忠に「岐阜から安土に妻子を移していない家は放火して、強制的に移らせろ」と命じました。
ずいぶんと荒っぽい手段ですが、こうでもしなければダラダラとして進まないからでしょう。
また、この年5月のキリスト教宣教師の手紙で、信忠がキリシタンに好意的な反応をし、修道院や教会の建設用地を与えたという話があります。
信忠の信仰について詳細は不明ながら、この辺の感覚も信長に準じていたのでしょう。
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