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【織田信忠の生涯】
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松姫はもういない 武田も滅亡した
実は高遠城の主である盛信は、松姫の同母兄でもありました。
彼女自身が一時期身を寄せていたほどです。
そして織田軍がやってくる前に松姫は盛信の娘を連れて高遠城から甲府へ向かい、さらに勝頼の姫や重臣・小山田信茂の娘も連れ、関東へ落ち延びたとされています。
おそらくは盛信や勝頼が「女子供であれば、見逃されたり敵軍の目をかい潜れる可能性がある」と考え、成人していた松姫にその役を任せたのでしょう。
「IF」に「IF」を重ねるような話ですが、もしも信忠と松姫の間で文通が行われていたことが事実であり、信忠がこの機会に「何らかの形で松姫を保護したい」と考えていたとしましょう。
そして「松姫は高遠城にいる」あるいは「高遠城を出たばかりだ」というところまで信忠がつかんでいたとしたら?
個人的な感情を抜きにしても「名門武田の血を引く子供をもうけて、いずれ武田旧臣の懐柔策に使いたい」なんて可能性もあります。
そういった理由で信忠は、松姫の行き先を信盛から聞き出すため、信盛が切腹する前に城を攻略したいと考えた……というのは、さすがに妄想の域ですかね。まあ与太話ということで。
史実としては、高遠城は総攻めが始まった3月2日に落ち、盛信は自害しました。その首は信長のもとに送られています。
その後、信忠軍は進軍を続け、3月3日は上諏訪方面へ侵攻、諏訪大社を含めて周囲を焼き払いました。
このため後の不幸を「諏訪明神の神罰である」という人もいたとか。
平家の例を思えばそういわれるのも致し方ないところですが、諏訪大社は地元の武士と強く結びついていたという面もありますので、戦略として見た場合はヒドイともいいきれません。
勝頼や武田の重臣が逃げ込む可能性も懸念したでしょうし。
一方その頃、武田勝頼は妻子を連れて逃げ続けていました。

北条夫人と武田勝頼、そして武田信勝の肖像画/wikipediaより引用
すでに味方の将兵がほとんどおらず、もはや一戦することも難しい状態。
あとは恥じない死に様を遂げるしかありません。
重臣の小山田信茂にも裏切られ、目指すは天目山棲雲寺――勝頼の先祖にあたる武田信満が自害したところです。
信忠は順調に武田領内へ侵攻し、3月7日には甲府へ到着。
ここで武田の一門や重臣を探し出し、成敗しています。織田軍の威風を見た近隣の武士たちは、信忠に降伏するため次々に名乗り出てきたとか。
信忠は、その対処に追われたのか、あるいは勝頼達の居場所を聞き出すためか、ここから数日間、甲府を動かなかったようです。
と、その間にようやく滝川一益が「勝頼一行が山中へ逃げていった」という情報を掴みます。
勝頼らが滞在しているという山梨郡田野の民家を一益に包囲させると、「もはやこれまで」と悟った勝頼は妻子を刺殺し、男たちは打って出て華々しく討死、あるいは自害したといいます。
武田勝頼と息子・武田信勝の首は一益から信忠に届けられ、信忠が実検した後に信長のもとへ送られました。
戦国大名としての武田氏は信忠によって滅亡に追い込まれ、その後、甲信の形勢は大きく変わっていくのでした。
信忠の判断で織田家が動いている
武田が滅亡したとき、信長はまだ岩村にいました。
3月5日には出陣していたものの、道中で盛信の首実検をしたり、雨に降られたりして進行速度が遅れたためです。
見方を変えると、織田信忠が自らの判断で名門・武田を滅亡へ追い込んだことになります。
信長にとってもこれは嬉しい誤算だったようで、信長公記では
「天下の儀もご与奪」=「天下を任せても良いと考えた」
と書かれています。
褒美として梨地蒔絵拵えの刀が信忠に与えられており、長男の手柄と成長を心から喜んだ様子が浮かんできます。
梨地とは金で梨の表皮のようにざらざらした装飾をつけることで、蒔絵は漆で描いた上に金銀を蒔く技法です。
ものすごく単純にいうと「鞘にめちゃくちゃ手間がかかった装飾がされている刀」=「超高級品」ですね。信長が信忠の働きに対して与えた評価がわかりやすく現れています。
また、勝頼が自害した3月11日には、武田から寝返った穴山梅雪が家康とともに甲府にやってきて、信忠に挨拶をしたことが記録されています。

武田家の重臣だった穴山梅雪/wikipediaより引用
信長ではなく信忠に、というのがミソですね。距離的な理由かもしれませんが。
甲州征伐で信忠に従った武将には、大きな領地を得た者もいます。
河尻秀隆:甲斐丸ごと
森長可:信濃で四郡
毛利長秀:信濃で一郡
甲斐・信濃へ侵攻したので、織田家ひいては信忠は、上杉氏や北条氏を強く圧迫する形になりました。
彼らは織田家による武田征伐をどう見ていたのか?
北条氏は織田軍の侵攻スピードをおおよそ掴んでいたようですが、積極的に協力する姿勢が見えなかったため、信長から疑われることになります。
天正八年から信長の娘と北条氏の嫡子・北条氏直との縁談が進んでいたというのに、思い切りの悪いことです。

北条氏直/wikipediaより引用
ほんの少し前まで武田-北条の同盟があったため、複雑な心境だったのかもしれませんが。
また、遠方では事実と異なるデマが多々流れていたようです。
北陸では「信長が討ち死にした」、中国地方では「信忠以下の織田軍が多く討ち死にした」などなど。
当時の情報・通信事情を考えれば仕方がないのかも知れませんが、「それってあなたの願望ですよね……」とでもツッコミたくなりますね。
毛利との対決に出陣要請
武田征伐の後は三男・織田信孝が四国遠征の大将に任じられ、信忠が餞の品を送っています。
記録上の両者はあまり接点が見られませんが、弟としてきちんと扱っていたということでしょう。
そして羽柴秀吉から中国攻めに関して信長へ出陣要請が届きます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
「毛利輝元が自ら出陣してきたため、ぜひとも信長様御自らのご出馬をお願いしたい」
中国地方8カ国に領地を有する強大な毛利。
輝元は言わずもがなその当主であり、全面対決を意識していたかどうか、本心は不明ながら信忠も信長と共に西へ向かいます。
信長は5月29日に京都へ到着し、本能寺へ宿泊。
この年の5月は29日までだったので、翌日は6月1日です。
親交の深い近衛前久父子をはじめ、公家衆が本能寺に来て挨拶や雑談していました。おそらくは信忠も同席したと思われます。
信長はその夜、上機嫌でこれまでの足跡を語り、右筆の村井貞勝や側近の小姓にまでねぎらいの言葉をかけたとか。
信忠も深夜まで信長と飲み交わしたそうで、さぞかし美味しいお酒だったことでしょう。
甲州征伐の首尾を考えれば、信忠への期待はさらに高まっていたはず。
そして信忠が自分の宿所である妙覚寺へ引き上げて数時間後、あの本能寺の変が起こったのでした。
本能寺の変
本能寺で信長が襲われたのは、天正十年(1582年)6月2日の午前4時頃とされています。
織田信忠はまだ就寝中でした。
妙覚寺へは数時間前に着いたばかりですから、それも当然のことです。
明智謀反の知らせを受け、信忠はすぐに本能寺へ向かおうとしました。
しかし、途中で村井貞勝父子から「既にご自害された」と聞き、

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
宿所の妙覚寺には戻らず、二条御新造へ。
二条御新造はもともとは信長が京都での宿所として建てたものを誠仁(さねひと)親王に献上されていて、妙覚寺よりは防護機能もあり、籠城戦向きだと考えられたのです。
信忠は光秀軍と交渉して誠仁親王一家と女性たちを逃し、二条御新造で最後の一戦に臨みました。
小勢ながら、一時間以上に渡って抗戦したといわれています。
業を煮やした明智軍が、二条御新造隣の近衛邸から弓や鉄砲を撃ってきたり、放火したりしたため「これまで」と悟り、信忠は遺骸を床板の下へ隠すよう命じて自害したとか……。
享年26の短い生涯でした。
もしも信忠が途中で村井貞勝らと出会っていなかったら、どうなっていたか?
後世の人間が言っても詮無いことですが、信長の偉業のひとつ【金ヶ崎の退き口】を思い描いていたら……。
四国遠征軍として予定していた織田信孝や丹羽長秀のもとには、1万4000前後の兵がいたとされています。
本能寺の変当日の明智軍の兵数は諸説ありますが、多くて2万程度と思われるので、信忠が大坂へ逃げきることができれば正面から戦えた可能性もありました。
四国攻略軍の中にいた従兄弟の津田信澄も助かったのではないかと思われます。
史実では信澄の妻が明智光秀の娘だったため、内通を疑われて信孝や長秀に殺されてしまいました。
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諸々の逸話からすると信孝は頭に血が上りやすいタイプだったと思われますが、信忠ならばそのあたりを冷静に指摘できたのではないでしょうか。
秀吉はおそらく史実と同じように行動したと思われるので、毛利軍と密かに停戦し、夜を日に継いで上方へ向かったでしょう。
その道中で信忠の生存を知れば、信忠を仰いで光秀討伐に動いた可能性が高そうです。
つくづく、信忠の従順さや潔さが裏目に出た形といえます。
まぁ、私などに指摘されるまでもなく大坂への逃亡なども当然考えたのでしょう。そして重々承知の上で最期の戦いに挑んだ……。
と、IFの話はその辺にして、最後に信忠の人柄を戒名から推測してみましょう。
戒名は「大雲院仙巌」
信忠の戒名は「大雲院仙巌」といいます。
信長は「総見院泰巌安公」なので「巌」の字が共通していますね。
巌は「大きくどっしりした岩」という意味ですので、信忠には信長と似たような重々しい雰囲気もあったということでしょうか。
肖像画からも似通っていたことがわかるので、外見や雰囲気はよく似た父子だったのかもしれません。
また、「仙」には非凡な才能を持った人という意味があります。偶然の一致なのか、幼名の「奇妙」と似ていますね。
これらを併せて考えてみると、やはり信忠は「信長の後継者としてふさわしい人物だ」と広く認められていたことがうかがえます。
院号からすると信長は「家中を総て見ていた人」、信忠は「家中を覆う大きな雲のような人」といったところでしょうか。
本能寺の変に関する文書は信長公記の他、宣教師の記録や奈良の僧侶の記録などがありますが、そのほとんどが信忠最期の戦いぶりを称賛しており、外部からの評価もかなり高かったようです。
そしておそらくは遺児となった三法師にも語り継がれたからこそ、長じて織田秀信となった彼は関が原の際に「さすがは信長公の孫」と称えられるほど奮戦したのでしょう。

織田秀信/wikipediaより引用
信忠が本能寺の変で諦めず、落ち延びて明智光秀を討伐していたら、少なくとも秀吉政権は誕生せず、織田の血が続く限りは徳川幕府も成立しなかったはずです。
日本史において最も夢のあるIFが実は「織田信長の生存」ではなく「織田信忠の生存」なのかもしれません。
なお、かつての婚約者だった松姫は、本能寺の変が起きた年の秋に八王子で出家し、江戸時代まで生き延びています。
後に家康が武田旧臣を多く迎えたこともあり、彼らの支えにもなっていたようです。
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現代では八王子市のゆるキャラ「松姫マッピー(→link)」としても存在感を残しています。
そして松姫の出家後の名は「信松尼」。
「信」の字が父・信玄や武田家からきているのか、顔すら合わせられなかった元婚約者・信忠からきているのか。
考えるとロマンがありますね。
★
信忠は信長と比較して記録や逸話が少なく、なかなか話題になりにくいというのが正直なところ。
しかし、その能力が決して信長の息子として恥じないものだったことは疑いようがありません。
近年では戦国時代を題材としたゲームでも登場するようになりましたし、信忠を主役とした小説も見かけるようになりました。
良いキャスティングの映画や長時間ドラマなどが作られれば、間違いなくさらに人気が出て、研究も進むのではないかと思います。
そして研究が進むごとに、早すぎる死を惜しむ人もさらに増えることでしょう。
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【参考】
国史大辞典
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織田信忠/wikipedia







