吉弘統幸/wikipediaより引用

大友家

もう一人の九州最強・吉弘統幸! そして宗茂の従兄弟は戦場に散った

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知略・外交に長けた軍師的存在も魅力的ですが、戦国時代の花形は、やはり気骨のある武闘派でしょう。

特に、寡兵でも大軍相手に怯むことなく「かかってこいや!」と胸を張る――。

東西の最強武将、本多忠勝立花宗茂がその代表かもしれませんが、強すぎる一族からは同じような人が出て来るもんで……本日は世間にあまり知られていない勇者の話です。

慶長五年(1600年)9月13日は、吉弘統幸(よしひろ むねゆき)が討ち死にした日です。

1600年のこのタイミングということで、何となく予想がついた方もいらっしゃるでしょうか。
例によって吉弘統幸の生い立ちからお話していきましょう。

 

吉弘統幸は紹運の甥で宗茂とはイトコ

統幸は、永禄六年(1563年)に大友氏の家臣・吉弘鎮信よしひろしげのぶの嫡男として生まれました。
鎮信と立花宗茂の父・高橋紹運たかはしじょううんは兄弟なので、統幸は宗茂の従兄にあたりますね。

この時代の大友家臣はあっちこっちに養子に行っているので少々ややこしいのですが、高橋紹運の初名が吉弘鎮理(”しげまさ” or ”しげただ”)だということを知ると、少しわかりやすくなるでしょうか。

吉弘統幸の地元である大分県・豊後高田市の公式サイトにわかりやすい家系図が出ているので、こんがらがってしまう方はこちらをどうぞ。

【豊後高田市公式サイト】 地域の戦国武将・吉弘統幸の基礎知識】より引用

戦国武将としては若い世代に入る統幸は、父が天正六年(1578年)【耳川の戦い】で戦死したため、15歳の若さで家督を継ぐことになります。
そして早くも天正八年(1580年)に、同じく大友家臣の田原親貫(たばる ちかつら)が反乱を起こしたとき戦功を挙げていますので、家中からは「頼もしい若者」と思われていたことでしょう。

その後、大友家が豊臣秀吉の傘下となり、島津征伐が行われたときも、統幸は活躍しています。
緒戦である天正十四年(1568年)【戸次川へつぎがわの戦い】です。

 

戸次川の戦いで殿をつとめた吉弘統幸

戸次川の戦いは「豊臣家からの現場司令官・仙石秀久の失策により、九州・四国の諸将が敗れた」ということで有名です。

このとき吉弘統幸が獅子奮迅の働きをしました。

島津軍の追撃を受ける主君・大友義統おおともよしむねや長宗我部軍、仙石軍らを救援するため、たった300の手勢で殿しんがり役に抜擢。

300を三隊に分け、
一陣:鉄砲
二陣:弓
三陣:長槍
の三段構えを取り、島津軍の渡河を中断させたといいます。

残念ながら長宗我部軍では嫡男の長宗我部信親が奮戦の末に討ち死にしてしまいましたが、大友義統は無事引き上げさせることができました。
また、これによって島津軍の府内侵攻を一日遅らせることに成功しています。

このとき統幸23歳。
実に鮮やかな戦ぶりです。

おそらく、この後に従弟である立花宗茂が島津への攻勢でさらに大きな戦功を挙げたため、吉弘統幸の働きは目立たなくなってしまったのでしょうね。

撤退戦を成功させるのもスゴイ才能なんですけれども。
少なくとも、金ヶ崎の退き口金ヶ崎の戦い)と同等の評価を受けてもいいはずだと思うのですが……知名度と主君のレベルが違いすぎるからでしょうか。

 

秀吉の怒りを買って大友義統はアッサリ改易

統幸らの働きによって命と立場を拾った義統。
その後、天正二十年(1592年)【文禄の役】で大ポカをやらかしてしまいます。

西行長からの救援要請が来たとき、直後に「小西隊全滅」の誤報も来たため、救援に行かず撤退してしまったのです。

これが秀吉の怒りを買い、あっさり改易されてしまいました。
といっても、小西隊からの救援要請をスルーした大名は他にもいたのですが。

秀吉に報告される途中で何らかの恣意が働いたんですかね。

あるいは「(元から能力が疑わしい)義統に、九州北部という(唐入りに関しての)前線地域をずっと任せておけない。今度のことは改易する良いキッカケだわ」と判断されたのかもしれません。

大名本人がアレでも、家臣が優秀で生き残ったという例はいくつもあるんですけどね……大友家臣の優秀さは折り紙付きですし。

義統はあっちこっちの大名にたらい回しにされ、同家の家臣については助け舟が出されました。

吉弘統幸もその一人で、黒田如水官兵衛)に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に一時預けられています。
ほとぼりが冷めると、柳川城主として秀吉の直臣大名になっていた立花宗茂の元へ身を寄せて仕え、2000石を与えられました。

【慶長の役】では、立花軍の一員として参加しています。
そりゃ立花隊が強いわけですわ。

 

旧主を見捨てることができず関ヶ原では西軍へ

慶長五年(1600年)の時点で、吉弘統幸は立花家におりました。

しかし、当時の大友家当主・大友義乗(よしのり)は、このころ徳川家に仕えており、家康に「今度の戦で手柄があれば、豊後一国で大名に復帰させても良い」と言われたこともあり、東軍で働く決意を固めていたといいます。

そのため、吉弘統幸も立花家を辞して東へ向かい、義乗の下へ馳せ参じようとしていました。

そこで運命の歯車が狂い始めます

隠居していた義統が西軍につき、力尽くで旧領を取り返そうと考えたのです。

あれだけ優秀な家臣がいて改易されたのに、よくそんな大それたことを考えたものですが……。
旧領に戻ったとき、旧大友家臣や周辺の有力者がぞろぞろ集まってきたというのですから、名家の威光たるや(あるいは担ぎ上げられたか)。

東へ向かっていた吉弘統幸も途中で義統と出会い、話を聞くと「義乗様は徳川方につくおつもりですから、どうかご一緒に」と進言しました。

これを義統は聞き入れません。
旧主を見捨てることもできず、統幸は義統に従います。

引き返すことのできない最後の分岐点でした。

 

黒田の先鋒隊に快勝するも……

吉弘統幸は、細川家の重臣・松井康之が留守を預かる杵築城を攻撃。
しかしその途中で黒田家の援軍がやってきて、城攻めを中断して野戦となります。

戦場となった場所の地名をとって【石垣原の戦い】と呼ばれています。

ここでも吉弘統幸は奮戦し、黒田軍の先鋒隊相手に大勝利を収めました。

ただ……。
黒田軍のトップである黒田官兵衛がいつ救援に向かってくるかもわからず、大友軍の士気はイマイチ上がりきりません。

基本的にどんな戦でも、総大将が来れば士気は急上昇するものです。
そのタイミングがつかめないと、相手側にとってはハラハラしっぱなしになるわけで、心理戦術の一つともいえましょう。

元から士気が高ければ、「敵の総大将が来る前にコテンパンにしてしまえ!」ということもできますが、統幸はともかく大友軍のトップは義統。
「あとはわかるな?」状態です。

 

三十ほどの騎兵を率いて黒田隊に突撃し……

かくして士気がジリ貧になる中、吉弘統幸は覚悟を決めてしまいます。
義統に今生の別れを告げた後、三十ほどの騎兵を率いて黒田隊に突撃し、見事討ち死にするのです。

最期はかつて黒田家に預けられていた際、世話になっていた井上之房に功績を与えるため、自刃した後に首を取らせたとか。

真田幸村(信繁)も大坂夏の陣の際、そんなエピソードが残っておりますが、後世の者達が勇者の最期を称えたい願望が反映されるのかもしれません(幸村の最期は混戦のドタバタで誰かに討ち取られたとか、福井藩士・西尾仁左衛門に討ち取られたとも)。

また、壮絶果敢な最期は、叔父である高橋紹運の死に様も彷彿とさせますね(高橋紹運は【岩屋城の戦い】で島津家の大軍相手に寡兵で戦い抜き、戦死)。

大友義統は黒田家に降伏して生き延びます。
ただし、秋田実季の預かりという情けない状態で……。

 

名家・大友家は高家旗本として存続している

その後の大友家は、一時断絶してしまったものの、【高家旗本】として復帰・存続しています。

「高家旗本」とは、朝廷の接待や寺社との連絡などをする旗本で、由緒ある家柄しかなれないとされる役職です。
有名どころでは元禄赤穂事件忠臣蔵)の被害者・吉良義央きらよしひさや、今川直房(今川氏真いまがわうじざねの孫)などですね。

彼らは足利家の流れをくむため、高家にふさわしいとみなされていました。

大友家も元は藤原氏系で、鎌倉時代から豊後守護を務めていたため、充分に名家と言えます。
だからこそ義統の残念さと、家臣たちの優秀さが際立つのですが……。

現在、統幸をはじめとした吉弘家の人々の軌跡は、豊後高田市の【都甲地域歴史資料展示場】で見ることができます。

せっかくですから吉弘統幸・紹運・宗茂ゆかりの地を連続して訪れたいものですけれども、全てを一回の旅行で見るには距離がありすぎてなかなか難しそうです。
季節限定で直通の高速バスなどがあれば嬉しいのですが。

大友家の家臣にはそれぞれに根強いファンがいますし、大友家全体で大河化でもすれば希望が持てますね。

そうすれば、一般的に大河での懸念事項とされている朝鮮の役もあまりクローズアップしなくて済むでしょうし、ぜひその方向でお願いしたいものです。

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とにかく魅力的な方ばかりですからね。

ちなみに、吉弘統幸の祖父である◆吉弘鑑理よしひろあきただと、◆立花道雪、そして◆臼杵鑑速うすきあきはやの三人を
【大友の三宿老】
【豊後三老】
【豊州三老】
などと称したりします。

この三人は、毛利家の吉川元春小早川隆景と真っ向勝負【多々良浜の戦い(1569年)】を行っており、結果は引き分けでした。

両軍合わせて数万という規模の戦いからして、いかに大友家の家臣たちが有能かご理解いただけるでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon link
吉弘統幸/wikipedia
地域の戦国武将・吉弘統幸の基礎知識/豊後高田市
都甲地域歴史資料展示場/豊後高田市

 



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