ポッと出の若造に、先祖代々の土地も権力もかっさらわれる――そんな話を聞くと「アホなの?バカなの?」って思いますよね。
しかし、これに当てはまる人がたくさんいたのが戦国時代。
陶晴賢(すえはるかた)という武将は、中国・九州に広大な領地を持つ大大名だった大内家を乗っ取り、その後の弘治元年(1555年)10月1日、今度は自身が毛利元就に敗北して自害しました。
毛利家が、中国地方の覇者となる上で、大きな契機となった【厳島の戦い】で敗れたのが陶晴賢なんですね。
一体何がどうしてそうなったか。当時を振り返ってみましょう。
陶晴賢によるクーデター
厳島の戦いから遡ること約4年の天文二十年(1551年)8月27日。
中国地方で【大寧寺の変(だいねいじのへん)】という反乱が起きました。
どんな事件か?
簡単に言うと、いくつかのすったもんだの末、大内氏家臣の陶晴賢(当時は陶隆房・すえたかふさ)が、富田若山城(とんだわかやまじょう)で挙兵し、主君の大内義隆を攻め滅ぼしたのです。

大内義隆/wikipediaより引用
このとき大内家では、武士だけでなく、領内の民まで晴賢に味方したと言います。
謀反を起こす前から「年貢が苦しいのは大内義隆のせいだ!」と広めていたんですね。
結果、大内義隆は大寧寺で自害。
嫡子の大内義尊も殺害されました。
しかし、晴賢は乱の後、明智光秀のように自らが主になろうとはしません。
あくまで殿様にキレたという立場であり、九州の大友氏から一時期義隆の養子に来ていた大内義長(前・大友晴英)という人を新しく当主につけています。
この方は、母ちゃんが大内義隆の姉だったのですね。
父親は九州の大名・大友義鑑(よしあき)で、兄に大友義鎮(よししげ=大友宗麟)がいます。
まぁ、いずれにせよ義隆から見れば甥っ子なわけであり、血筋は申し分ありません。
ではどうして晴賢はキレてしまったのでしょうか?
主な理由は二つあったといわれています。
義隆の度を越した公家趣味
一つは、主君・義隆の公家趣味でした。
大内氏はもちろん武士ですが、代々貴族文化を好む家柄でした。
その中でも義隆はとくに「公家贔屓」が過ぎたといわれています。
和歌を詠んだり連歌(五七五と七七を交互に詠んでいく形式の和歌)を催したり、まるで平安貴族のような趣味だったそうです。
まぁ、連歌は戦国武将の多くもハマっていて、例えば黒田官兵衛や真田幸村、最上義光といった有名どころもその一人なんですけどね。
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戦国武将たちが愛した連歌をご存知?光秀も藤孝も幸村も皆んなハマっていた
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たまに詠むくらいなら「ウチの殿様は風流人だぞ!すごいだろ~」ということにもなりますが、義隆は度を越していたのが問題になりました。
特にライバルである出雲(島根県)の尼子氏に大敗した後は変な意味で逆ギレしていまい、「これからは風流に生きるぞよ」とまったく政治や軍事をやらなくなってしまったとさえいわれています。
領主としても武士としても、これではリーダー失格。
現代で言えば、トップシェアを奪われたメーカーの社長が「ワシこれからゴルフに生きるから!」と出社しなくなるようなものでしょうか。
そりゃ「お帰りくださいご主人様」とでも言いたくなります。
特に晴賢は、武勇に優れた大内家の重臣一族でしたので、見ていられなかったのでしょう。
ちなみにこの変で京都から遊びに来ていた公家が全員惨殺されています。こわー。
衆道の主従関係だったとも
もう一つは、これまた戦国時代によくあるアノ話です。
義隆と晴賢は若いころ衆道(男色)関係にあったため、次第に相良武任(さがらたけとう)という家臣が寵愛されていくことが晴賢にとっては耐えがたかった――というものです。
衆道は単なるごにょごにょだけでなく、主君と家臣の絆が強まり、出世のキッカケにもなりました。
忠誠と愛情の入り混じった複雑な関係だったのでしょうね。
国史大辞典によると、晴賢は幼い時は美少年で、文化的素養はなかったと書かれています。
つまり、美貌だけで通った若い時期が過ぎて、教養が求められる大人になってからは……という?
一方、恋のライバル武任は文官肌の人で、実際に能力もありますが、晴賢にとっては目の上のたんこぶでしかなく。
「殿がヤワな思考になってしまったのは、アイツがたぶらかしたからに違いない。
現に、殿はアイツに政務を任せっきりじゃないか!
アイツが殿を言いくるめて、自分のやりたいようにやってるんだ!おのれええええええええ!!アーッ!」
……というように、嫉妬と忠誠と猜疑心を爆発させてしまったんじゃないか?という話です。
まぁ、陶晴賢らの武断派(武力を中心とした一派)と、相良武任ら文治派(行政を中心とした一派)らの対立というがあり、その権力争いだった――という見方が自然ですね。
毛利が中国地方の覇者に
さて、新しく当主を決めたものの、その後の大内氏は歴史から消えていってしまいます。
そりゃ、理由があったとはいえ主君を殺した家臣がそのまま家の中にいるのですから、周りからは評判悪いですよね。
大内氏に従っていた周辺の領主達も「もうアンタの家はイヤでーす」とばかりに次々と離反していってしまいます。
替わりに出てきたのが、かの毛利元就でした。

毛利元就/wikipediaより引用
天文24年(1555年)、元就が表舞台に出てくるキッカケとなった【厳島の戦い】が勃発。
大寧寺の変で弱体化した大内氏は、毛利氏の前に敗れてしまいます。
結果、晴賢は35歳の若さで戦死してしまいました。
皮肉なことに、晴賢は主家を再興するどころか元就の前座になってしまったのです。
厳島の戦いは、毛利元就による鮮やかな奇襲が炸裂した戦いとして知られます。
詳細は以下の記事にありますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』(→amazon)
陶晴賢/wikipedia
大内義隆/wikipedia






