波多野秀治/wikipediaより引用

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波多野秀治の信長を裏切り光秀に追い込まれた生涯【丹波戦国譚】

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武田信玄vs上杉謙信だったり。
織田信長vs浅井朝倉だったり。

戦国時代のロマンは、やはり大名クラスの武将がド派手にぶつかりあう場面でしょう。

言い換えれば、地方の無名な国人衆(地域に根差した小領主たち)なんて知らんわ!
ってことになりかねませんが、いやいや、それはもったいない話。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は明智光秀が主人公だけに、がぜん注目度が上がってきている武将が何人かおります。

その筆頭が波多野秀治でしょう。

京都の隣に位置していながら、ビッグネームが不在なだけに戦国ファンからも放置されがちな丹波エリア。
そこには明智光秀を苦境に陥れた者たちもいたのです。

いったい波多野秀治とはいかなる人物か。
その事績を追ってみました。

 

丹波の有力者・波多野秀治

波多野秀治は、丹波国(現在の兵庫県付近)の有力武家である波多野一族に生まれました。

父は波多野晴道で、伯父に波多野元秀。
秀治は、波多野宗家の伯父・元秀の養子になると、波多野家当主の跡を継ぎました。

もともと波多野氏は、丹波国でかなりの実力を持つ一族です。

しかし、秀治が家督を継承したと思われる頃には、三好長慶松永久秀の弟である松永長頼に敗れ、没落していた頃。

それでも都に近く、朝廷や室町幕府の所領が多かったことから、政治的な影響力も有していたのでしょう。

永禄3年(1560年)に正親町天皇の即位式が催された際には、秀治が交渉人となって毛利元就を説得し、即位式開催にともなう費用をねん出させています。
その際は、秀治本人も上京し、京都の守備を担当しました。

それから6年後の永禄9年(1566年)には、松永長頼の手に落ちていた居城・八上城を奪い返し、ここを再び本拠と定めます。

以下の地図をご覧ください。

※黄色=明智光秀の坂本城

※赤色(右)=波多野氏の八上城
※赤色(左)=赤井氏の黒井城

京都から直線距離で30kmほどの位置にあり、畿内の支配者にとっては軽視できない拠点だとご理解できるでしょう。

他にも同族の波多野宗長に支城の氷上城を守らせるなど。
丹波国多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市たんばささやまし)一帯における支配者としての地位を確立しました。

この時期の丹波国は、赤井直正を中心とする赤井氏も、波多野氏と同じく新興勢力の有力者として黒井城に君臨しておりましたが、そこへ彼らの支配体制を脅かす者が現れるます。

織田信長です。

 

赤井氏と共にいったんは信長へ服属

永禄11年(1568年)。
尾張の織田信長は、隣国・美濃を制すると、足利義昭を擁して京都の地へ入りました。

赤井氏や波多野氏など、京都周辺で独立勢力を保っていた大名家は、ここで
「信長への服属か反抗」
という選択を迫られます。

赤井氏と波多野氏は、いったん信長への忠誠を誓い、秀治は服属の証として太刀や馬を贈呈。
信長から感謝を示す書状を受け取っています。

イラスト・富永商太

他にも、書状から小畠永明こばたけながあき川勝継氏かわかつつぐうじ、あるいは荒木藤内あらきとうないといった在地の国人衆が、織田家になびいたことがわかります。
丹波は、武田信玄や今川義元といった、他国のように強力な大名が不在の土地だったのです。

こうして点在する国人衆らと主従関係を築いた信長ですが、京都では、その関係性を大きく揺るがす事態に発展していきます。

元亀4年(1573年)に決定的になった信長と義昭の対立です。

支配者として君臨したい両者の思惑がぶつかり、義昭は自身の味方になりうる有力勢力に「信長包囲網」の形成を触れて回りました。
そこで義昭の目にとまったのが赤井直正です。

 

赤井討伐に駆り出されたのは光秀だった

義昭から幕府再興の助力を求められた赤井直正。

それは
【京都の義昭を救うため直正が乗り込んでくる】
という風説が流れるほどでした。

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結局、京都襲撃こそ実現しませんが、天正3年(1575年)、赤井氏は明確に「反信長」路線を表明し、織田家の支配下から離反します。

信長は畿内の平定事業や一向一揆衆の討伐に追われており、すぐに丹波へ兵を差し向けることはできませんでしたが、同年の秋には諸勢力との戦いを一段落させ、赤井氏の討伐に乗り出しました。

と言っても当人が直接出向くわけではありません。
明智光秀を派遣したのです。

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波多野氏にとって、同じ丹波の有力者・赤井氏が強大な織田家に攻められる――というのは、とても他人事とは言えない荒波でした。

が、波多野秀治は、赤井氏に呼応して信長を裏切るということはせず、あくまで織田家従属の姿勢を変えません。

彼らに、反信長の誘いはなかったのか。
あるいはすでに赤井氏と内応を約束していたのか。
それとも、この時点では日和見を決め込んだだけなのか。

後の経過を踏まえると、なぜこのとき信長に対して反旗を翻さなかったのか不明ですが、ともかく波多野氏は静観を決め込みました。

 

突如として赤井氏側に寝返った秀治

赤井氏討伐の命を受けて丹波に乗り込んできた明智光秀。
まずは宇津氏や内藤氏といった丹波の小勢力を撃破し、次にいよいよ赤井氏の領内へと侵攻していきます。

猛将として知られ、赤井氏をとりまとめていた【悪右衛門尉】こと赤井直正は、この一報を受けて出陣先から本拠である黒井城へと戻り、防衛体制を敷きました。

これを追って光秀も黒井城を包囲します。

戦いは、持久戦に持ち込まれるかと思われましたが、猛将・赤井直正を擁しても赤井氏の劣勢は明らかでした。

但馬の八木豊信という武将が、毛利家の吉川元春に対し
「丹波国衆は、もうほとんど光秀の一味だよ」
と書き送っているほどです。

周囲から完全に孤立してしまった赤井氏の命運は風前の灯火と化しており、光秀本人も先行きをかなり楽観視していたことでしょう。

しかし!
ここで織田家にとっては思いもよらぬ展開を迎えます。
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