波多野秀治

波多野秀治/wikipediaより引用

諸家

丹波の戦国武将・波多野秀治! 信長を裏切り光秀に追い込まれた生涯とは

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赤井討伐に駆り出されたのは光秀だった

義昭から幕府再興の助力を求められた赤井直正

それは【京都の義昭を救うため直正が乗り込んでくる】という風説が流れるほどでした。

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結局、京都襲撃こそ実現しませんが、天正3年(1575年)、赤井氏は明確に「反信長」路線を表明し、織田家の支配下から離反します。

信長は畿内の平定事業や一向一揆衆の討伐に追われており、すぐに丹波へ兵を差し向けることはできませんでしたが、同年の秋には諸勢力との戦いを一段落させ、赤井氏の討伐に乗り出しました。

と言っても当人が直接出向くわけではありません。

明智光秀を派遣したのです。

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波多野氏にとって、同じ丹波の有力者・赤井氏が強大な織田家に攻められる――というのは、とても他人事とは言えない荒波でした。

しかし、波多野秀治は、赤井氏に呼応して信長を裏切るということはせず、あくまで織田家従属の姿勢を変えません。

彼らに、反信長の誘いはなかったのか。

あるいはすでに赤井氏と内応を約束していたのか。

それとも、この時点では日和見を決め込んだだけなのか。

後の経過を踏まえると、なぜこのとき信長に対して反旗を翻さなかったのか不明ですが、ともかく波多野氏は静観を決め込みました。

 

突如として赤井氏側に寝返った秀治

赤井氏討伐の命を受けて丹波に乗り込んできた明智光秀。

まずは宇津氏や内藤氏といった丹波の小勢力を撃破し、次にいよいよ赤井氏の領内へと侵攻していきます。

猛将として知られ、赤井氏をとりまとめていた【悪右衛門尉】こと赤井直正は、この一報を受けて出陣先から本拠である黒井城へと戻り、防衛体制を敷きました。

これを追って光秀も黒井城を包囲します。

戦いは、持久戦に持ち込まれるかと思われましたが、猛将・赤井直正を擁しても赤井氏の劣勢は明らかでした。

但馬の八木豊信という武将が、毛利家の吉川元春に対し
「丹波国衆は、もうほとんど光秀の一味だよ」
と書き送っているほどです。

周囲から完全に孤立してしまった赤井氏の命運は風前の灯火と化しており、光秀本人も先行きをかなり楽観視していたことでしょう。

しかし!
ここで織田家にとっては思いもよらぬ展開を迎えます。

これまで一貫して光秀への服属を表明していた波多野秀治が、突如として織田家を裏切り、明智陣営を急襲したのです。

不意を突かれた光秀は敗れ、這々の体での撤退を余儀なくされました。

この驚くべき裏切りは、光秀にとって予想外だっただけではなく、信長にとってもまた手痛い出来事であり、丹波平定の戦略を変更せざるを得ませんでした。

短期戦による平定を諦めた信長。

光秀を丹波から引き揚げさせ、他エリアの戦に向かわせました。

 

なぜ秀治は信長や光秀を裏切ったのか

秀治の裏切りについて、明確な理由を示す史料は残されておりません。

動機や経緯については今も謎。

外から戦の展開を見ていれば、赤井氏が極めて不利な立場に追い込まれており、勝敗だけを考えるのであれば、光秀を裏切るのは相当リスキーだったはずです。

それでも赤井氏に味方したのはなぜか。

そもそもの大前提として、直正や秀治が、信長にほとんど忠誠心を感じていなかったことが原因として指摘できます。

彼らは上洛する信長に形式上従ってはいましたが、その対象は「足利将軍を擁する織田信長」であり「戦国大名としての織田信長」ではなかった。その可能性は否めません。

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裏切り行為は突然であっても、そもそも信長の味方をしなければならない心理的効果もなかったことが想像できます。

以上を踏まえたうえで、改めて裏切りに至る動機を考えてみますと……。

まず一つ目。

戦前から赤井氏と波多野氏は、内応の手はずを整えていた――。

両者はお互いに丹波国の有力者であり、距離的にも多少の交流があったとしても不思議ではありません。

先程も掲載した地図ですが、あらためて距離感を確認していただくと以下の通りです。

※黄色=明智光秀の坂本城

※赤色(右)=波多野氏の八上城

※赤色(左)=赤井氏の黒井城

この時期の波多野氏&赤井氏、両者の間に争いの形跡が確認できないことから、程よい関係性を保っていたことでしょう。

となれば、書状こそ残されていませんが、やはり内応に向けた働きかけがあったのではないでしょうか。

赤井氏は信長への敵対を決めてから調略に要する時間は十分にあり、武人として評価の高かった直正であれば何かしらの策を練ったと考えるほうが自然です。

もう一つの原因としては、光秀の戦ぶりを目の当たりにしたことで、信長への恐怖心を煽られた――そんな可能性を指摘したいところです。

【丹波の赤鬼】として恐れられていた赤井直正ほどの人物をに追い込んでいく光秀の手法。

あまりに鮮やかな進軍が目の前で行われ、織田家に対する警戒心が一気に増大したのです。

信長に従って日が浅かった秀治は、その苛烈さや家臣の見限り方を踏まえ、自分がいつ直正のように攻め滅ぼされるかもしれない、という恐怖を感じたとしても不思議ではありません。

この時期の秀治は、最新参といっても過言ではないほどの外様大名であり、主従の結びつきはほとんどありませんでした。

しかも、上記二つの仮説は、両立します。

内応の誘いを受けていた波多野秀治が、反信長という決断には至らないまでも、戦の展開を見て恐怖を感じた結果、裏切りに走った――という複合説です。

個人的にはこれを推したいところです。

もっとも、この可能性を裏付けるような史料は全く残されていないので、あくまで妄想の域を出ないのは残念ですが。

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