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【土佐一条家】
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四国の覇者・長宗我部元親の台頭で没落
四代・房基は武力で領地を拡大し、名実ともに戦国大名らしくなりました。
が、本人は27歳で自殺、もしくは暗殺という不可解な最期を迎えてしまったために、同家にとっての悲劇を招くことになってしまいます。
房基が息子に教育をする間もなかったせいで、五代・一条兼定が非常にヤバい感じの人になってしまったのです。
まぁ、父の急死によって家督を継いだのが兼定7歳のときですから、しょうがないところはあるのですが。
この人のことは、おそらく土佐一条家よりも長宗我部家について詳しい方のほうがよくご存知でしょう。
後に四国覇者となる長宗我部元親にとって、土佐国内でのラスボスが一条兼定だったのです。
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彼は負け戦続きの中で、重臣を無実の罪でブッコロすという暗君のテンプレ暴挙をはたらき、無理やり隠居させられてしまいます。
長宗我部元親が四国の英雄だろうが何だろうが、悔しくてたまらない兼定。ハンケチを噛みながら、姻戚の大友家を頼って九州に逃れました。
兵力を借りて土佐を取り戻すべく攻めたものの、結局、長宗我部家から覇権を取り返すことはできずに終わります。
そんなわけで、土佐一条家が土佐で実権を持っていたのは、五代目までということになります。
血筋はもう少し続きましたが……あまり良い方向にはなりません。
京の本家は戦国以降も生き抜き、血筋を残す
六代・内政は長宗我部元親の娘婿となり、長宗我部家の傀儡という形で中村に戻りました。
しかし、今度は長宗我部家内の謀反に加担した疑いで追放。
七代・政親に至っては【関ヶ原の戦い】で戦国武将としての長宗我部家が滅亡した後、行方不明になってしまったそうで……。うーん、コメントに困る(´・ω・`)
ちなみに、京(本家)の一条家は戦国以降を無事生き抜き、現在まで血が続いています。
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結果から見ると「土佐に行った意味あった?」という気もしますが、当時は京都がもつとも思えなかったでしょう。
むしろ、「最悪、本家の血筋が絶え、京都に戻れなくなったとしても血を残す」という、武家とは少々違った執念がうかがえるという話に……なりませんかね。
もしも政親がどこかで静かに生き延び、子孫を残していたとしたら、血筋だけは今もひっそりと伝わっているのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
一条教房/wikipedia
土佐一条氏/wikipedia