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【赤井直正(荻野直正)】
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義昭を奉じて信長上洛
かくして丹波における実権を確立していった直正に、とある一報が入ります。
1560年に【桶狭間の戦い】で時代の風雲児となった織田信長は、その後、【稲葉山城の戦い(1567年)】で美濃の国を制覇、1568年に明智光秀や細川藤孝(細川幽斎)などの尽力もあって、京都へやってきたのです。
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領地の隣接する赤井氏としては、
・軍門に下るか
・敵対するか
という分かりやすい選択を迫られました。
そこで赤井氏および波多野氏(波多野秀治)は、信長に忠誠を誓います。
以降、彼らは信長家臣団の一員として位置づけられるようになり、永禄13年(1570年)には、当主・赤井忠家に対して領土の安堵状が発給されています。
※直正は、あくまで甥・忠家の補佐でした
キッカケは信玄 織田包囲網に参戦する
しかし、義昭と信長の対立が表面化してくると、元亀4年(1573年)頃から直正をはじめとした丹波衆の間に「反信長」の機運が高まっていきます。
「直正の裏切り」といえばそうなのですが、そもそも彼らは「人間・織田信長」に忠誠を誓ったとういより、あくまで「足利義昭の支持者である織田信長」に従ったに過ぎません。
彼らから見れば「将軍と対立した信長には従う理由がない」わけでもあり、義昭支持を表明した直正については、軍勢を率いて京都に出陣するという噂さえ流れました。
結局、実現はしておりませんが、信長と対立して立場を悪くしていた足利義昭から「幕府再興に協力を」と助力を求められます。
では、スッパリと織田と縁を切ったのか?
と問われれば、そこは戦国時代の駆け引きの難しさがあり、天正元年(1573年)頃には羽柴秀吉(豊臣秀吉)から寺社領をめぐる書状が送付されていて、非常に微妙な力関係が見てとれます。
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将軍の権威か。
信長の勢いか。
悪右衛門尉であり、丹波の赤鬼でもある直正としても、簡単には決断できなかったのでしょう。
そんな折、判断を下すキッカケになったのが武田信玄でした。
「信長包囲網」を結成する武田氏との意思疎通を得ると、その翌年には反信長の態度を明確します。
当然、信長との対立は決定的なものとなりましたが、元亀3年(1572年)【三方ヶ原の戦い】で徳川家康相手に大勝した武田軍は、その後、不可解な撤退をしており、信長包囲網がにわかに崩れ始めるのです。
信玄は翌年(1573年)に亡くなっていました。
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かくして兵力に余裕ができた織田軍。
【丹波平定】という任を受け、現地へ派遣されてきたのが明智光秀でした。
敵は光秀ではなく寿命だった!?
天正3年(1575年)に光秀の丹波平定軍が同国に到着。
討伐の矛先は、まず内藤氏と国衆の宇津氏という勢力に向けられました。
理由は「将軍をめぐる対立で我々に逆らい、いまだに反抗を続けているため」というもので、実際、彼らは信長が攻めるための大義になり得る反抗を見せていたようです。
ただ、内藤氏も宇津氏も、それほど強大な勢力ではありません。
電光石火の早さで両氏は降伏を余儀なくされ、これで丹波平定はおしまいかと思いきや、光秀は全く撤収の構えを見せないのです。
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織田家の敵は、有力な戦国大名に成長していた赤井直正その人でした。
丹波の小勢力を倒すためならば、わざわざ織田軍のエース・光秀が送り込まれたりはしないでしょう。
内藤・宇津勢の打倒というのはあくまで口実であり、この段階で攻めこむための大義名分がなかった赤井直正に対して戦を仕掛けるためだったと考えられます。
光秀が、赤井勢の本拠である黒井城へ兵を進めた時、直正は【天空の城】としても著名な竹田城を攻めている最中でした。
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